第2章6

 上半身を宙に乗り出した体勢で、前足の爪を校舎の壁に食い込ませるようにして体を支え、まるで釣り竿のような体勢で私のシャツを必死に咥えている野良犬君の姿が、そこにはあった。

 野良犬君の体は小刻みに震えていたが、それでもなお必死の形相で堪えていた。


「放して、放して!キミまで落ちちゃう!」


 どう見ても私よりも体重の軽い犬に、どうしてそんな事ができるのか、まるで理解出来なかったが、それよりも重要な事はこのままでは自分を助けようとしてくれてい

この野良犬君も巻き添えにしてしまうかもしれないという事だった。


「やめて、嫌だ」


 私は自分の意志で死ぬことを選んだ。なのに、そんな私を助けようとしてくれている命まで巻き込んで死ぬなんて、そんなのは最悪だ。

 無我夢中で野良犬君を振りほどこうと、宙吊りの体勢のままもがいてみたが、野良犬君もまた決して放そうとはせず「グゥゥ」とくるしげな鳴き声だけが聴こえてくる。

 不安定な位置でもがいていたため、野良犬の体は重力と私の体に引きずられるようにして次第にズルズルと前のめりに体勢を崩しだす。

 

「いや、そんな、違うのに」


 このままでは本当にこの子まで落ちてしまう。

半ばパニックになりつつも、なんとかここは一旦諦めて手すりになる場所を探しはじめるが、真下の三階の窓枠は自分の位置よりもさらに下にあるため掴む事が出来ず、そうなると唯一掴めそうなのは、今自分が飛び降りたばかりの屋上の縁しかなかっ

た。


「うう、もうちょっと・・・」


 宙吊りの体勢のまま、なんとか上半身を捻り、屋上のへりに手を伸ばそうとする。

 ジリジリと引き上げようとする犬のおかげで、すこしづつ手が縁に近づく。

 なんとかあとすこしで手が届きそうに思えたその時、ブツッ、という小さくはあるがはっきりとした嫌な音がすぐ傍から聴こえた。

 そしてその音が鳴った直後に自分の体勢が僅かに崩れる。


「あっあっ」


 さらに、その嫌な音は続けざまにブツッブツッと響かせる。

 音の原因がわたしの頬に当たる。それは制服のシャツのボタンだった。

 ボタンが何処かへ弾け飛んでいく度に。ボタンが無くなる度に体の位置は崩れていき、伸ばした手はどんどん縁から離れていく。


 そして最後のボタンが弾け飛んだ瞬間、私の上半身はするりとシャツから抜け落ちて、そのまま落下していく。

 

「あっ」


 私を見つめる野良犬君の瞳が大きく見開かれてゆくのがわかった。 

 現実というのは、どうしてここまで私に残酷なことができるんだろう。死のうとすれば、死なせようとしないくせに、助かりたいと願った途端にあっさり手をはねのけるのだから。

 おそらく神様は私のことが好きじゃないんだ。いや、それどころか、きっと大嫌いに違いない。

 そんなの望むところだ。私だって大嫌いだ。

 

「でも…」


 野良犬君が落ちずに済んだのだから、結果としては悪くはないのかもしれない。

大嫌いな神様ではあったけど、あの野良犬君と出会えたことだけは、ほんのちょっとだけど感謝してあげなくもない。

 ああ、でもあの子の心を深く傷つけてしまった。両親の死で受けた心の痛みを、今度は自分が与えてしまう。それだけが辛かった。


「ごめんね」


きちんと声には出てはいなかったと思う。

最期に目に焼き付けるように野良犬君を見つめる。

野良犬君もこちらを見つめている

互いの距離が徐々に離れていく。


 次の瞬間、私の目に信じられない光景が映る。

 それは屋上から躊躇いなく真っ逆さまに飛び降りて、こちらへと飛び込んで

くる野良犬君の姿だった。

 なぜ?どうして?同じ問いかけが頭の中でグルグルと駆け巡った。

 出会ってからほんのすこしの間しか一緒にいなかったのに。

 こんな私なんかのために、どうしてそこまでしてくれるの?

 こちらの疑問など意に介す事はなく、猛然と私の胸へと飛び込んでくる野良犬君を思わず抱きしめる。強く、強く目一杯の力で抱きしめた。

私は悪い人間だ。身勝手で他者の痛みなど気にも止めない,酷い人間だ。

 これじゃあ、私は私の傷つけてきた奴らと同類じゃないか。


「ああ、でも・・・」


 そんな私を命懸けで助けようとしてくれるモノがいた。

 たとえそれが不可能であったとしても。

 それがどうしようもないくらい、たまらなくうれしかった。

 恐怖から目を閉じ、野良犬君を強く抱きしめると、野良犬君の身体からポカポカと暖かなお日様のような匂いがした。


「嫌だな」


 今更、死にたくないと願った。ほんと今更だった。

 野良犬君を抱きしめる腕にさらに力がこもる。せめてこの子だけでも助かればと、祈る。

 

 その瞬間、私の腕に抱く野良犬の感触が変化したような違和感を覚えた。

 野良犬君の目を見張るように美しいフサフサの銀毛の感触が何処かへ消え去り、まるですべすべとした人間の肌に触れているような感触だった。

 そんな違和感に目を開こうかと思った次の瞬間、全身に強い衝撃と鋭い痛みが走った。

「ツッッッッッ」

 肺の中の空気を残らず吐き出してしまうほどの強烈な衝撃と、全身を一度に強打されたような痛いなどとは言い表せないほどの痛みが瞬間的に全身を襲った。

 私の意識はそこで途切れた。






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