第2章5

「さてと、それじゃそろそろ行こうかな」


 決断というよりは、半ば諦めのような言葉を吐き出す。

 万が一にも野良犬君が間違って落ちてしまわないように脇へと移動させる。野良犬君は今からなにが起きるのか、理解してるのかどうかは判らなかったが、なんだかそわそわしているように見てとれた。

 出来るなら目を瞑っていて欲しかったが、さすがにそこまでは言う事をきかせるのは無理なので諦めると、あらためてどこまでも暗い宙空へと向き直る。


「スゥーハー」


 大きく深呼吸を一度する。

 意を決して半歩前へ進みでようとしたところで、お尻の辺りをグイッと引っ張られる。

「うわわッ」


 驚き振り向くと、なんと野良犬君が私のスカートの端を咥えて引っ張っていた。


「クゥーン」


 まるで「危ないよ」と気遣うように野良犬は悲し気な鳴き声を上げる。


「…心配してくれるんだね、ありがとう。キミってホントにやさしい子だね」


 自然と頬から涙が零れ落ちていく。


「…でもゴメンね、もう決めちゃったから」


 犬にではなく、自分に言い聞かせるように吐き出す。

 涙を流すなんていつ以来だろう。たしか両親が亡くなっと報せが着て、それからお葬式までの間はずっと泣き続けていた気がする。てっきりもう涙なんて涸れてしまったと思っていた。まだ泣けたんだ、私。


「ゴメンッ!」

 

 グイッと力を込めて、スカートを咥えている犬を乱暴に引き剥がそうとするが、野良犬君は一向に放そうとしなかった。さらに、腕を振り上げ叩く素振りを見せる。も

ちろん叩くつもりなど微塵もなかったが、驚いた野良犬君は数歩後ずさる。


「もう構わないで!お願いだから!」


 ふたたび虚空へと向き直る。


「私を傷つけて、大切なものを奪っていくだけの現実なんて大嫌いだっ!」


 真っ暗な空へ向けて、大声で怒鳴りつける。

 涙が止めどなく零れ落ちていく。


「ママ…パパ……親不孝な娘でごめんなさい」


 パパは怒るかもしれない。ママはきっと悲しむだろうな…


 それでも、どうか許して欲しい


「会いたいんだよ…どうしても会いたいんだよ……ママ…パパ…」

 もし死後に両親と会えるのなら、それがたとえほんの一瞬だとしても構わない。


 最後に振り絞るように本当の願いを口にすると、これまでの苦しみから抜けだすため、纏わりつく未練を振り切るように、暗闇の空へと身体を投げ出した。

 瞼を堅く瞑り、恐怖と緊張で体を強張らせながら重力に身を任せる。恐怖とほんの僅かに期待の入り混じった複雑な心持ちで、終わる時が訪れるのを待った。

 

 しかし、いくら待ってもその時は一向に訪れる気配がなかった。それどころか自分の身体が落下していく感覚すらまるでなかった。

 おそるおそる目を開けてみると、そこは飛び込む寸前に視た景色と、まるで変わっていなかった。

 命が危険になると、周りがスローに見えると、以前にテレビで見た事があったがそ

れだろうか?

 だが、再び瞼を閉じようとしたところで、何かがおかしいと異変に気がつく。

 もう一度、今度はしっかりと目を開く。すると、視界に移る景色はゆっくりと降下するどころか、微動だにしていていなかった。

 

「なんで・・・」

 

 体がまるで宙吊り状態のように、その場に停止していた。

 その時、はじめて自分の身体に違和感を覚えた。

 まるで、後ろからクレーンのような強い力で引っ張られているような。

 そんな事はありえない。そもそも出来るはずがなかった。

 そうは思いつつ振り向く。

 そこには私の常識など一変する光景があった。ありえない事が起きていた。

 あの野良犬君がすぐ後ろにいた。









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