第2章2

『もう後戻りはできない』


 暗闇が語り掛けてくる。

 私だってべつに死にたいわけじゃない。他にこの苦しくて、苦しくて、ただ辛いだけの現実から逃れる術がもし存在するのなら、真っ先にそちらに飛びつきたい。でも、そんなものどこにも無いんだから仕方ないじゃない。

 どうして私ばっかりが、こんなにも不幸な目に遭わなければならないのだろう。


 誰よりも幸福な人生を望んでるわけじゃない。ありふれたどこにでもある普通の幸せが欲しかっただけなのに、それすら貰えないなんて、そんなの不公平だ。休み時間にクラスメイトたちが、次の日曜に家族で遊園地にいくと言っていた。別の子は夏休みに家族で田舎へ帰ると話していた。

 家族、両親、親と一緒、耳を塞いでも聴こえてくるその言葉が苦痛だった。

 どうして私だけこんなに苦しまなければならないのか。

 幾度となく自分自身に問い掛けてきた。だが、その度に答えは出せず、ただ苦しみと孤独に押し潰されそうになる無意味な日々が続くだけだった。


「でも、それももうじき終わる」


 心臓は依然として警鐘を鳴らしていたが、今迄の辛いだけの日常から、ようやく解放されるのかと思うと、高揚感だろうか、僅かにではあったが気持ちが軽くなっていくように錯覚した。


「きっと明日は、大ニュースになるんだろうな。緊急の全校集会したり、マスコミが校門に押し寄せてきて校長が謝罪会見したり。それだけ大事になれば、もしかしたら川崎先生やクラスメイトたちもすこしは反省してくれるかも…」

 

 別に罪悪感を抱いて欲しいわけじゃない。

 ましてや、悲しんで欲しいなどとは思ってもいない。

 ただ、知って欲しかった。

 私がどれだけ追い詰められていたのかを。

 安らげる場所など何処にもなかった事を。

 心が悲鳴をあげていたことを。


それでも、自分にとって唯一の希望もあった。


「これでママとパパに会えるかもしれない」


 諦めのような、唯一の救いのような言葉を口にすると、後ろ手に掴んでいた金網か

らゆっくりと手を放そうとした。


しかし、虚空へとその身を投げ出そうとした瞬間、ふと、なにか猛烈な違和感を感じる。

今迄周囲はおろか、屋上にも誰一人いない事は、何度も確認した自分自身が一番よくわかっている事なのだが、その誰もいるはずのない屋上の、ましてやフェンスの外側だというのに、自分の真横から何かの気配、というか息遣いが聴こえてくる。


「ふぇあっ!?」


 慌てて気配を感じた方へ振り向き、それが視界に飛び込んできたと同時に、なんとも素っ頓狂な悲鳴をあげてしまう。

 それもそのはずで、さきほどまで確かになにも存在してなかったはずの私の隣に、何故か奇妙な色をした犬がお座りしていた。

 咄嗟に噛まれるのではと後ずさりするが、しかし突然現れたその犬は、こちらに敵意を向ける様子は微塵もなく、躾の出来たペットのようにちょこんと隣にお座りしたまま、こちらの様子をジッと不思議そうに眺めていた。

 予期せぬ闖入者の登場で、しばし我を忘れて茫然としてしまう。


「犬だよね?・・・噛んだりとかしないかな?」


 体長は1・2メートルほどだろうか。それほど威圧感を感じるサイズではなかった。目鼻立ちが鋭く、スラリとした体躯はまるでモデルのようにスレンダーであると

同時に野性的な凛々しさがあった。

 そしてなによりも目を引いたのが、夜の暗闇にも映えるような美しい銀色の毛並と

夜空の星を散りばめたようなキラキラ輝く碧色の宝石のような瞳だった。

 ただそこに在るだけで、周囲が息を呑むほどの存在感を醸し出す美しい毛並みの犬がさきほどから私の隣でお利口そうにお座りしているのだった。

 こちらを覗き込むその瞳は、まるで「なにしてるの?」とでも言いたげな眼差しで小首を傾げてこちらを見つめる仕草はなんとも愛らしく、今すぐにでも我を忘れて抱きしめて、美しい毛並みをモフモフしたい欲求に駆られるほどだった。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る