第2章1

 じっとりと汗が滲む。ぴっちりと体に張り付いたシャツが不快だった。

 自慢のロングヘアも、今すぐにシャワーを浴びたいほど汗でベタベタしていた。シャツの上ボタンを二つ外し、パタパタとシャツを扇いでみたが、多少不快感が和らぐ程度で、扇ぐのを止めた途端、汗で濡れたシャツはペタッと身体にくっつき、不快感がぶり返してきた。

 それでも下がスカートなだけまだ幾分かはマシかな、と自分を慰めた。

 たしか朝のニュースで天気予報士が「今晩から熱帯夜のため寝苦しい夜が続くでしょう」と言っていたような気もしたが、まさかここまで酷い状態になるとは思いもしなかった。これまでも散々痛感してきた事ではあるが、あらためて自分の計画性のなさと見通しの甘さに腹が立ってくる。


 屋上の出入り口の裏手に隠れ始めて、かれこれ6時間は経っていた。

 始めのうちはコンクリートの床の上に体育座りをしてじっと息を潜めていたが、すぐにお尻が痛くなってしまい、鞄をクッション代わりにして座り直したが、それでも

お尻が痛くなるので、たまに立ち上るなりして時間を潰していた。


 ようやく辺りが暗くなり、人気が無くなると、物陰から這い出して四方をぐるりととフェンスで囲われた殺風景な屋上をブラブラと徘徊し始める。

 当たり前だが、これといって何か目を引くような物があるわけもなく、隅っこに菓子パンの袋や紙パックのジュースが散乱している程度だった。

 何の気なしに散乱した紙パックを掴むと、フェンスの外へ向けて放り投げてみたが、10メートルはありそうなフェンスにあっさりと阻まれてしまう。何度かチャレンジしてみるが結果は変わらず、ただ余計に汗をかいただけだった。

 早々に諦めて、また元の位置で学生鞄をクッション代わりにして座り直すが、すぐ

にまたお尻に痛みがやってくる。


「こんなことなら教科書じゃなくてタオルでも入れてくればよかった」

 

 再び、同じ体勢でジッとしていると、なんだか今の自分がとてもみすぼらしく、惨めな存在に思えてきて、次第に瞳が涙で曇ってくる。


「朱里ちゃん、今頃なにしてるかな」


 自分にとって唯一人の友達の名を口にしたのは、決意が揺らいでいる証拠であり、なによりも自分の心に堪えたのは逃れようのない孤独感だった。

 もし今、彼女に連絡する術があり、私の心の内に溜まった泥のような感情を吐きだす事ができれば、どれだけ自分の心は癒されるだろう。友達である朱里ちゃんであれば、自分の話にきっと耳を傾けてくれる。

 しかし、そもそもその友達と連絡を取ろうにも、現代であれば誰もが当たり前のよ

うに持っている携帯電話を自分は持っていなかった。

 

 中学生の頃、親に駄々をこねて携帯電話を買ってもらったことがあったが、両親が交通事故に遭った際、携帯を持たない両親に連絡用として貸していたため、そのまま喪失してしまっていた。おそらく今頃は車と一緒にスクラップになっているだろう。

 それ以来、携帯電話を持ちたいと思ったことは一度もなかった。 


 「いやいや、ダメだ」


 もし仮にここに携帯電話があったとして、もし朱里ちゃんの声を聴いてしまっ

たら、きっと自分の決意は揺らいでしまう。なんのためにわざわざ校舎の屋上で何時間も耐えてきたのか。


「しっかりしろ、歌敷舞子」


 自分の迷いを振り切るようにパンパンと自分の頬を叩く。

勢いよく立ち上がると、その勢いのままフェンスの前までやってくる。そして金網の隙間に指を差し込みしがみつくと、勢いよくフェンスを登り始める。

 力一杯に金網を掴んだため、手のひらが酷く痛かったが、なんとか痛みに堪えながらフェンスをよじ登っていく。靴がフェンスの隙間に上手く入らず、途中で何度も足を踏み外しそうになるが、その度に手が真っ赤になるくらい懸命にフェンスを掴み、

なんとか堪えた。

 ようやく天辺までよじ登ってくると、そこへ跨るようにして一旦休憩をとり、手の痛みが和らぐのを待つ。

 フェンスの上からの景色は、さきほど屋上から眺めていた景色とはまるで異質なものだった。

 さきほどまで彼女と外界を隔てていたフェンスはなく、もし一歩でも踏み外せば、たちまち命を掠め取っていく無慈悲な空間が目の前に広がっていた。朧げにしか見渡すことのできない暗闇の世界が、たしかにそこに静かに横たわっていた。

 周囲の山々から吹き抜けていく生暖かい風は、まるで大きな怪物が舌なめずりしながら、吐息を漏らしているかのように思えた。


「はぁはぁ、…べつにもう、ここからでもいいかな」

 

 周囲の景色は、雲の切れ間から月明かりが差し込んでくるおかげで、かろうじて見渡せる状況であったが、眼下に広がる景色は、校舎の陰影が指し込んでいるせいか、そこにあるはずのアスファルトで舗装された地面を視認する事ができず、まるでそこには真っ黒などこまでも深い穴があるよう思えて、余計に不安を駆り立てられた。


「やめよう。ここまで高くなくても別にいいし…」


 恐怖と緊張からか、次第に朦朧としてきた頭を無理やり説得すると、登る時とは逆に、今度はゆっくりと時間を掛けて、足を踏み外さないよう、慎重にフェンスの外側へ身を乗り出す。


「よいしょ…よいしょ…」そろりそろり降り始める。

 

 一歩また一歩と下るたびに、心臓が警鐘を鳴らすように鼓動の速度がどんどん増してゆくのが判った。

 

「このまま心臓が破裂しちゃったりしないよね」

 

 登り始めた時にはあんなにも苦労したフェンスが、降りではあっさり終わりを告げ、フェンス外の縁に足が着いてしまった。


 ああ、遂にここまで来てしまった。

 

 おそるおそる振り返ると、そこにはさきほどよりもさらに勢いを増して、こちらを呑み込んでしまいそうなほど圧倒してくる夜の世界が広がっていた。

 さきほど浴びた生暖かい吐息がさらに近くに感じられた。暗闇に視た巨大な怪物は、口を大きく開けて、今にも私を飲み込んでしまいそうだった。

 昼間であれば、中庭の花壇や桜の木を見下ろせたはずだが、今自分の視界に入るものは全てが黒く塗り潰された無機質な暗闇の一部でしかなかった。

 フェンス一枚隔てただけで、世界はここまで変貌していた。

 

 私の心が絶望で塗り潰されていった。








 









 

 


 





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