秘密の場所

 二年前のことである。


 新しい住居に引っ越しを終えた彩香は、まだ見知らぬ土地を散策しに家を飛び出した。


 車が一台通れるくらいの狭い道路。畑や雑木林。緑の上に広がる青い空。元々、都会に住んでいた彼女からすると、そのすべてが新鮮で、冒険の予感がしていた。


 交差点を渡る。だんだんと歩調が速くなる。そうかと思えば、急に立ち止まり、深く深呼吸をする。木の匂いが胸いっぱいに広がる。


 果てしなく広がる緑の景色も、森閑とした家屋の連なりも、風に運ばれる木と土の匂いも、何もかもが素晴らしかった。


「わあ、きれいー」


 そこは大きな庭を有した一軒家だった。庭には、赤や黄色、紫やピンクなど、様々な色の花が咲いていた。


 彼女は、引き寄せられるように、ふらふらと庭に入り、しゃがんで花々を見つめた。花の付近では、二匹のミツバチが飛び回っている。そのうちの一匹が、彩香の眼前をゆっくりと横切った。まるで、「一緒に遊ぼうよ」と誘っているようだった。


 彩香が目を爛々と輝かせながら蜂を見ていると、庭の奥の方から、ザクッザクッと土を掘る音が聞こえてきた。家を挟んだ、裏庭のほうからである。


 彼女は音がした方へ、そっと向かった。


 そこには、大きなシャベルを持った男性が立っていた。彼の前には、正方形の穴が掘ってある。一辺の長さが二メートル程で、あまり深くない。


 男性は息を弾ませながら、穴を掘り続ける。


 彩香は、音を立てずにそーっと背後に近づいた。男性との距離は、たった二メートル程度しかない。


 彼女が、男性をじっと見つめていると、彼は掘るのをやめた。シャベルを地面に置き、大きな伸びとともに、彩香のほうに振り返った。


「ひゃっ」


「ん、誰だお前」


 彩香と男性の目が合った。


 彩香は驚いて、そそくさと男性から逃げるように、その場を去った。


 庭の入り口まで走ると、恐る恐る振り向いた。先程の男性が追いかけてくる気配はない。


 彼女は、立ち止まり、しばらくの間、裏庭のほうを見ていた。家に遮られ、向こう側は見えない。


 地面を掘る音が止んでいた。


 彩香は、裏庭に向かっておもむろに歩き出した。怒られるかもしれない、と彼女は思ったが、それ以上に、男性のしていたことが気になっていた。


 裏庭を覗くと、どこから持ってきたのか、男性が青いビニールシートを、穴に敷いていた。そして、ホースを引っ張ってきて、ビニールシートの上に水をかけ始めた。


「そんなところに突っ立ってないで、こっちに来いよ」


 男性は彩香のほうを見向きもせずに、大きな声で彼女を呼んだ。


「これ、なーに」


 彩香が近づくと、彼はニヤリと笑った。


「手作りの池だよ。そして、俺だけの秘密の場所さ」


 彼はしゃがんで池の水を触り、「冷たいな」と呟く。


「お前も触ってみろよ、ひんやりとしていて気持ちいいぞ」


「うん」


 彩香は、男性のようにしゃがむと、池に向かってゆっくりと手を伸ばした。冷たい水が肌に触れて、心地よい。


「まだ何もいないけど、めだかとか入れる予定さ」


 男性は、立ち上がった。彩香は池の水に夢中になっている。それをじっと眺めて、彼は、思わず噴き出した。


「来週までには、めだかを入れとくから。来たかったら、また来い」


「いいのー?」


 彩香は男性を見上げた。


「ああ、その代わり、ここのこと、誰にも言っちゃ駄目だからな」


 男性は優しく微笑んだ。


 こうして、彩香と雄太は出会ったのである。

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