5.傲慢

 車が屋根を下にして着地した後、彼女は全く動かなかった。

 動けなかった、ではなく、動かなかった。

 男が車から出る前にしっかりと「何もするな!」と念を押したのもあるが、彼女は何よりその必要性を感じていなかった。

 地面から振動が伝わってきても、どこかから無数の破裂音が響いてきても、空を裂くような人の声がこだましていても、彼女は眉一つ動かさなかった。

 彼女はわかっていた。自分が出るべき幕ではない。

 自分は何もするべきではない。そう信じていた。

 しばらくそうして目を閉じながら、事態の収束を待っていた。


 数分後。あるいは数時間後か。

 ようやく全ての物音が消えた時、彼女は重い腰を持ち上げて車内から出ることにした。


「——ごきげんよう」


 扉を開けたと同時、まるで友人への挨拶かと思わせるほどの気軽さで、声を掛けられた。

 その声の方向を見れば、そこにいたのは彼女より一回り小さな女の子だった。


「遅かったですわね。貴女が車の中で縮こまっている間に、頼れる味方は誰一人いなくなってしまいましたわ。ほら、ご覧になって」


 彼女が足元に視線を落とせば、ひび割れた黒いアスファルトの上に転がる拳ほどの大きさの肉塊がある。

 どれも原型がわからないぐらい、ぐちゃぐちゃだ。


「綺麗でしょう? 腐った命の成れの果ては」


 彼女はただ1つ溜息を吐き、再び視線を持ち上げた。

 そして、静かに少女を睨みつける。


「……貴女、相当な無口ですのね。可愛げのない方」

「余計なお世話よ」

「あら、客観的に見た事実ですわよ?」


 少女の言葉は、彼女に向けるには優しすぎる。

 だが、少女の顔は、堪えるように口角が吊り上がっていた。

 彼女にはわかる。それが、心からの嘲りであることが。


「そんな怖い顔をしないで下さいまし。ほんの冗談ですのに」


 少女は口に手を当て、ケラケラと笑う。隠しきれない自尊心が溢れ出ている。彼女はその奥底に、どす黒い瘴気のような性格の悪さを垣間見た。

 彼女が最も関わりたくないと思う人種だ。


「……あんた、何者」

「ああ、そう言えば自己紹介もまだでしたわね。わたくしとしたことが、失礼致しましたわ」


 少女はドレスの裾をつまみ、丁寧にお辞儀してみせた。

 その所作はどこか大仰でうやうやしく、わざとらしい。


「私はアイリ・サティスフィー。気軽に”アイリ”とでもお呼び下さいまし」


 そう名乗った少女は、しばらくして顔を上げる。


「さ、私はきちんと答えましたわ。貴女こそ、自分が何者なのか、お名乗りになってはいかが?」

「……魔燈マトウ


 彼女はそれだけ言って口を噤んだ。


「姓、ですわよね。名はございませんの?」

「…………命」


 彼女は渋々答えた。相手をするだけで顔に皺が寄る。


「ふーん、珍しい名前ですわね。もっとも、珍しいだけですけれど」


 手の爪を眺めながら言う少女は至極どうでもよさげだった。

 聞いておきながら、と彼女は拳を握る。


「さて、では命さん。今、貴女の前には2つの道がございますわ」


 少女は右手の指を2本立て、笑う。


「1つは、今この場で、その辺に無様にまき散らされてる肉塊の一部と化すか、」


 中指を折る。


「それとも、私たちの傘下に入り、忠実な犬っころとして仕えるか」


 人差し指の爪を見せ、くいっくいっ、と招くように指を折る。


「貴女のその使い物にならない能力を私たちが有意義に使って差し上げますわ。安心してくださいまし、この国の無能な政府とは違って、私たちは貴女を満足させることができます。窮屈な思いもしないで済みますわ。どうです、魅力的でしょう?」

「……ふふ」


 余裕の笑みを浮かべ、まるで強者のように佇む少女。態度、行動、言動……その全てが、彼女には滑稽に見えた。

 そしてついに、少女の勧誘文句によって、我慢は限界を超えてしまった。

 一方、少女は初めて笑みを消し、彼女を睨んで問う。


「……何かおかしくて?」

「ええ、可笑しいわ。笑えるわよ。あんた"無能"と全く同じこと言ってる」


 口の端の片方を小さく歪ませ、顎を上げる。

 心の中の最大限の侮蔑を乗せて。


「誰もがそう言うわ。今のあんたとおんなじように。私にとっては、どいつもこいつもそう変わるもんじゃない。結局、あんたらが望んでるのは私じゃない」


 彼女の脳裏に過ぎるのは、翡翠色の目と栗色の髪を持つ痩せた青年の顔。

 アレも、目の前の傲慢な少女も、彼女にとっては同じようなものだった。


「あんたらなんかとお仲間ごっこなんざ死んでもお断りするわ。まだ魔界村やってた方がマシよ、信奉者カルトども」


 決定打だった。彼女に恭順の意志が無いことは火を見るより明らかだった。


「……そう。そう、ですか」


 少女は細くため息を吐き出す。

 整った顔の目尻が下がり、呆れたように腕を組んで、地面を軽くヒールで叩いた。


「——では、死んで下さいまし」


 言うなり少女は指を弾く。

 それと同時に現れるのは、そこらじゅうにある地面の隆起や建物の残骸の隙間から突き出る無数の

 流石の彼女も1歩下がるが、車にまでは戻れなかった。彼女の背後には


 次の瞬間、火花と硝煙とけたたましい炸裂音とが一帯を支配した。

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