3.密会

 "外"にまるで魅力を感じなくなったのはいつからか。思い出そうとして、やめる。

 そんなことを考え始めたところで意味のないことだし、何より、その試みは初めてではない。

 曇った薄暗い空も、微風に虚しく揺れる木々も、無邪気にあちこちへ行ったり来たりする子供たちも、彼女にとってはただの風景に過ぎなかった。


(また、か)


 彼女は心の中で呟く。

 何度、そう、何度目だろう。当たり前となってしまった現状に、彼女はもはや違和感を感じてすらいない。己の置かれた状況を、ひどく冷めた目で見ている。まるでそれが当然かのように。

 今も、目の前のディスプレイに流れる映像を眺めながら、彼女は無感動に視線を行ったり来たりさせていた。


「……頭が腐りそうだわ」

「まぁ、まともに受け取る人はほぼいないさ」

「でしょうね。気が狂ったのかと思ったわ」

「狂ってるんだよ。誰しもね」


 彼女は、穏やかな音楽とともに緑あふれる映像を流すディスプレイの電源を切った。

 そしてもう1人——悪びれる素振りも、恐怖で強張りもしない、むしろどこか親しげな雰囲気すら醸し出す青年は、くつくつと笑いを堪えながら頷いた。


「まぁでも、1度は世界を滅ぼしかけた女がまだ生きていて、地下の快適な空間で本を読みゲームをしてる、なんて誰も思いはしないだろうね」

「その言い方はやめてって何度も言ってるわよね」


 彼女の愚痴も意に介さず、青年は戯けた口調で話題を変えた。

 誤魔化そうという意図が透け透けだが、彼女は特に何も思わなかった。


「それはそうと、君、少しはマリオは上手くなったのかい?」

「最近はグラディウスしかしてないわ。1ステージも進めないけど」


 諦めたように彼女が言うと、青年は今度こそ大笑いした。


「ははははっ、またかい。本当に君はレトロなのが好きだねぇ。下手の横好きなのが玉に瑕だけど」

「プレイすら出来ない貴方に言われたくはないわ。かなり思考容量を使うでしょう」

「タイミングを合わせて指を動かすぐらいはわけないさ。ちょうど軽い運動みたいなものだしね」


 まだ小さく笑いを引きずりながら、青年は手元のリモコンを操作する。と、小さくモーターの駆動音が響き始め、脚についたタイヤが回転し、青年は椅子ごと体を反転させた。

 向き合って初めて、彼がその手に板状の端末を持っていることに気付く。


「……さて、じゃあ形式的な話はさっさと終わらせよう。君はあまり興味がないかもしれないけどね、そんなことより、もっと話したいことがあるんだ」

「連中にとってはその"形式的な話"も大事なことなんでしょう? そんなこと言って大丈夫なのかしら」

「おや、君が心配してくれるというのもまた珍しい。けどご心配なく。僕は奴らの言いなりの手駒じゃあないし、そもそも奴らは僕でなくともわかりきってることを、敢えて、わざわざ僕に聞いてるんだ。安心さえ出来ればどうでもいいんだよ」


 一息で、溜まった何かを吐き出すように言葉を並べ立てた青年は、次にはまた微笑みを顔に貼り付ける。


「というか、これを1番退屈だと思っているのは君の方だろう?」

「そうね。否定はしないでおくわ」


 青年は苦笑を零し、手元の薄型のタブレット端末に視線を落とした。


「君のバイタルは今日も異常なし。体脂肪率、内臓脂肪率、血糖値、血圧、エトセトラ。どれをとっても肉体的には健康そのもの。取り敢えず精神面も大丈夫。君の中の"悪魔"も最近はよく眠ってるようだし、問題ないね」

「そ、ならいいわ」


 適当すぎる返事。だが青年は至極真剣な表情になり、そばにあった机の上にタブレットを放り投げた。


「そう、それはいい。なんならこんなことは僕がしなくてもわかる。人間の科学は思ってたほど捨てたもんじゃないからね。僕がこうして君と合わされてるのは、単に他の人たちが君を恐れて近寄らないからだ」

「……何が言いたいの?」


 話の真意が掴めずに彼女は尋ねる。

 青年は、椅子を操作して彼女に近づきながら、さらに論を展開する。


「君の健康や精神を観測し、制御し、拘束することは、はっきり言ってしまえば簡単だ。君は今のところ僕や奴らへの敵対心は持っていないし、何か能動的なアクションを起こす気もない。今じゃ生活習慣だけ見ればヒキニートそのものだ。それも国家権力に守られた、ね」


 青年のヒキニート呼ばわりに思うことが無いわけでもない彼女であるが、正直なところ否定できないので何も言わずに耳を傾ける。

 一方で、続く言葉に詰まった青年は、自身の栗色の髪を掻きながら少しだけ考える間を作った。


「……ふむ、もっと直接的に話そうか。君は、自分の境遇についてどこまで知っている? 何のために君を今の状況に押し込めているのか?」

「隔離するためでしょ」


 それ以外に答えがあるのか、と言外に問うように、彼女は当たり前のごとく言った。


「そう。あの日……"一夜大戦"の悲劇。あれを引き起こした張本人たる君を、これ以上好きに行動させないため。確かにそれもある——というか、それが1番大きな目的だ——けど、それは目的であると同時に、手段でもある」

「手段?」


 彼女が首を傾げれば、青年はまた顔に笑みを浮かべる。面白そうだと如実に語る、満面の笑みを。


「誰にでもわかりやすく言えば……『僕らの仲間にならないかい? 君がいれば心強いんだけどなぁ』というやつさ。答えはわかりきってるけどね」

「あほらしい」


 彼女は眉根を寄せ、ため息とともに吐き出す。


「本当に気が狂ったのかしら」

「言っただろ、誰しも狂ってるものさ」


 予想が当たったことが嬉しいのか、あるいは純粋にこの状況を面白がっているのか。彼は笑みを一層深めた。


「それと、そうでもしないといけない理由が無きにしもあらずってとこ」

「願い下げよ」

「だろうね」

「なら何故聞いたの」


 逆に彼女は尋ねる。

 答えがわかりきっている問いほど無駄なものはない。この男に限っては特に。

 彼女は、目の前にある2つの翡翠ひすい色の瞳を、一切信用していない。


「"何故"、か。興味が出たからと言ったら信じるかい?」

「いいえ」


 彼女は今まで腰掛けていたメッシュチェアから立ち上がる。


「あなたなら聞く意味もないことでしょう」


 返事を聞くより早く彼女は身を翻し、部屋の扉を開けて外へ出ようとした。


ミコト


 開いた扉の手前で彼女は止まる。

 その背中に彼は声を投げた。笑みは消えていた。


「傷は時が経てば癒える。時間が流し去ってくれる。だが消すことは出来ない。永遠にだ。君はそれを一生背負っていくことになる」

「…………」

「僕も痛みを知っている。強烈な痛みだ。いつもここにある。君のものとどちらが大きいかはわからないけどね」


 彼女は振り返る。

 その瞳を真っ直ぐ青年に向けた。


「あなたと私の痛みは違う。あなたに私は理解わからない。例えあなたが全てを理解するとしても」


 視線から伝わる迫力は彼の体を貫き、押さえつける。

 それでも、彼は負けじと言った。


「そうだ。だからこそわかる。君と僕は同種だ」

「いいえ違うわ」


 明確な拒絶。間髪入れずの即答。


「例えどんなにその頭が痛んでも、何も解りはしない。何も変わりはしない。……あなたはどちらにいるのかしら?」


 彼女は開きっぱなしの扉から1歩踏み出す。

 青年の一瞬の逡巡の隙に、無情にも扉は閉じられる。


「……参ったな」


 もどかしさと後悔に苛まれる彼は、知らずのうちに呟いていた。


「あれが彼女の逆鱗か。……僕は、最悪なものを起こしてしまったらしい」

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