第2話 記憶喪失

 それは言うなれば、光の一筋も射し込まない深い深い海底の、そのまた奥の暗黒のような。そん奥底の夢の中での雅久は、人間が決して持つことのない力を使っていた。目に入る人間をまるで自分とは違う生き物のように、無差別に一匹残らず殺していき、街中で響き渡る悲鳴を彼は満足な笑みで嗤っている。ふと、彼の目の前には両親が佇んでいた。醜いほどに形相を崩し、全身血塗れの両親は雅久に指を指し一言「あんたが死ねばよかったのに」そう言うのだ。


「っ!?」


 雅久は、ハッと目蓋を持ち上げると、視界に広がるのは見慣れない天井。少し体を動かすだけで感じる痛み。寝心地の悪いベット。身体中のあちこちに巻かれた包帯や自分の腕へと管を伸ばしている点滴を見てここは病室なんだなと把握した。今の時刻、太陽が遠く彼方にあるようで、そんな病室は一面翳らせている。


 ふとベットの縁に、突っ伏せながら寝息を立てている一人の少女、一花がいた。しかし、彼は疑問符を浮かべたような顔付きだった。起こすのも悪いかと、しばらく病室の窓から夏の青空に目を通していた時、寝ていた一花は艶かしい声を唸らせて微かに目を開き始めた。彼女は雅久と目が合うなりその目を見開かせてその末、長い睫毛に涙を溜めて口を開いた。


「がっちゃん……無事でよかった」

「えっと……」


 がっちゃんとは? と言わんばかりに首を傾げる雅久は、愛想笑いを浮かべた。それが自分へ愛称なのだろうとは察することができたが……。それでも確かに覚えていることがあった。それは事故に巻き込まれそうになったとある少女を救ったことだ。その少女の顔はしっかりと目に焼き付けているが、今、雅久の目の前にいる少女とは一致しない。


?」

「え?」


 雅久がそう放つと、彼女は暫くの唖然を有した。


「ごめん……笑えないな」


 カタコトな口調の彼女に雅久は申し訳なさを感じたが、彼はどんなに思考を回そうとも1ミリたりとも彼女の事が分からない。それよりもと無神経ながら雅久が今一番不安で心配な質問をする。

 

「ところでさ、黒髪でショートの子を知らない?」

「……」

「あの……」

「……え? あ、あぁ……咲ちゃんね。がっちゃんのお陰で無事だってよ」

「良かったぁ」


 雅久は安堵の胸を撫で下ろした。そう話をしていると当の本人が病室の扉をガラガラと開いて現れた。どこまでも暗い表情だったその少女は雅久が目覚めているという事実を認識してからか、その表情の切り替えに時間を与えないまま一瞬で輝かせ、おぼつかない足取りで彼の元へ近づいていった。


 その少女の半袖や半ズボンから露出した細い腕や足、そして首や額など見える限りの肌には傷一つすらないのだ。


「雅久さん。本当にごめんなさい! 私が周りを見てなくて」


 腰を深く曲げる少女に雅久は「いいよいいよ」と微笑んで見せる。


「でも私……なんて謝罪すれば」

「そんなのいらないって。お互い生きてるし、こうやって話せてるし」

「でも……」

「それよりさ、名前は? それと今日何曜日?」


 申し訳なさそうに腰が低い彼女を元気付けようと話題を変える。


「私は星宮咲です。今日は金曜日ですよ」

「咲……いい名前だね。ってか金曜日!?」


 驚愕した理由はそのまんま。咲が今日は金曜日だというのだ。なぜなら事故があった日は金曜日であるが、それは夕方の話で、今は昼である。まさかと雅久は怖気付いたように咲へ質問する。


「俺は……何日間眠ってたの?」

「丸々一週間ですよ」

「おっと……」


 時間の感覚としては、金曜日の次の土曜日だと雅久は感じていた。そしてこみ上げてきた心配を、咲と先程から二人の会話を聞いて呆然としている一花に向かって放つ。


「おい、学校は? 今昼だぞ?」

「そんなの午前中だけ行って早退してきました」


 なぜか自慢げにそう言う咲の隣にいる一花は、相変わらず虚空の空間を一点見つめしたまま口を開く気配がない。


「それはダメだろ」

「だって無神経じゃないですか。大怪我を負わせてまで助けてくれた人をお見舞いに行かないだなんて」

「……そんなの学校終わってからでいいじゃん」

「だって学校つまんないんですもん!」

「結局そこか」


 お互い苦笑しあって、和んだ空気が病室を包み込む。


「それより、私以上に心配してくれた一花さんをあなたは心配するべきです」

「……えっと。一花って誰?」


 その言葉の何かがいけなかったのだろうと察することはできたが、その何かを理解しかねない様子の雅久。病室の空気は直ちに不穏な空気へと姿を変え、瞬間的に立ち上がったのは一花だった。表情が読み取れない彼女は一言も発させず、駆け足でガラガラっと乱暴に病室の扉を開けるなり、足音を響かせながら出て行ってしまった。そんな様子を二人で見送ると、咲は目を瞬かせながらくるりと雅久の方へ視線をやり、口を開いた。


「雅久さん。酷すぎるんじゃないですか?」

「……あの子が一花って名前なのか?」

「当たり前じゃないですか! 一花さんから聞きましたがお二人幼馴染みなんですよね?」

「そうなのか?」

「そうなのかって……一花さんはこの一週間、早退どころか学校そのものを休んで朝から晩までつきっきりで雅久さんの側にいたんですよ? 普通そんな人います?」

「……」

「とりあえず! 雅久さんは長くて一週間で退院できるそうなので、一花さんと仲直りする方法を考えておいてください。それと……本当に感謝しています。困った時はいつでも私を頼ってください。また明日来ます」

「分かった」


 そう言って一花は病室を出て行った。それから一花という少女と仲直りをする方法を雅久は思考をフルに活動させていた。仲もないものを直させるという理不尽さに抗いなら。


 それから一週間、病室に毎日つきっきりで見舞いに来てくれていたらしい一花は、全く見舞いに来ることはないまま、検査やリハビリなどを行い正常だと判定された雅久は退院した。再び何気ない日常が訪れるのだろうと彼は相変わらず平穏な足取りで、一人学校へ歩を進めて行くのであった。


 教室に入るなり、雅久は数人の男子に囲まれながら心配の声の嵐に飲み込まれた。そんな彼らを通り抜け、席に着くと今度、声をかけて来たのは晴樹だった。


「お前、支障はないのか?」

「まぁ激しい運動は控えろって」

「そうか、無茶するなよ」

「心配感謝する」


 


「そいえば今日の一花どうしたんだろうな?」


 また一花という名前だ、とそれを聞いた雅久は晴樹の視線を追うと、その席にはやつれた一花がいて、周りの女子生徒からも心配されている様子だった。しかし雅久ははほんの顔見知り程度にしか認識していないため、彼女を心配するどころか訝しんでいた。


「さっきからお前のことチラチラ見てるんだよ。でもいつもみたいにお前の所来ないから、マジでどうしたんだろうな?」

「……へぇ」


 雅久の思考は既にショートしていた。自身が知らない所で、一花に関する事で何かが起こっている。周りの言動がそう教えてくれる。ここまできて考えられる事はただ一つ。記憶喪失である。しかし雅久はまた疑問符を浮かべた。検査では正常だと判定されたはずなのである。生活にも支障はない。


 それから授業中、雅久は一花の横顔をまじまじと見ていた。そこで気づいた事は一花が美少女だという事だった。既に思考することを諦めた雅久はただただ一花に見惚れていた。


 そうして昼が訪れた。いつものように自作の弁当を机に広げて、晴樹と向か合わせにした。気づいた時、やけにクラスの人々の視線が教室の入り口に向いてるなと感じ、雅久もそれを追ってみると、そこには扉に身体を半分隠しながら教室中を不機嫌そうに見回す咲の姿があった。それを見て口を開く晴樹。


「あれ……咲だよな? 珍しいなこんな所に」

「……えっ!?」


 雅久は咲が同じ学校だったと言う事実に驚愕していた。

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