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 各々がなみなみとお酒の注がれたグラスを片手に持っている。

 だが、誰も口を付けてはいない。

 皆、カウンターで俯くように座った谷川さんを見ていた。

 今までのことを謝りたいとのことだった。

 別に謝らなくたっていいのに、他のやり方を見つければいい。他のやり方で河本を引きずり下ろせばいい。

 それだけなのに、谷川さんの頭はカウンターから上がってはこない。


「おっさんよ。調子わりぃなら、こんなとこで俯いてるんじゃなくて帰って寝ろよ」

「こればっかりは依月さんの言う通りですよ谷川さん、昨日も言いましたけど、調子悪い時に来るようなとこじゃないんですよ。ここ」

 私もそう思う。

 しかしながら、谷川さんがこうも魂の抜けたような様子になったのはなぜなのだろうか。

 いつもなら、目の前に置いてあるハイボールくらいなら、すぐに飲み切って、次はなにしようかと言いながら棚に置いてあるお酒を物色しているのに。

 などと私は一歩引いて見ていると、谷川さんが少し肩を振るわせながら、机から頭を上げる。

「……くそっ」

 呟くように吐き捨てて、グラスを手に持ち、谷川さんは一気にハイボールをあおった。

 顔色がよくないのに、私達若者のような勢いでグラスを乾かしていく様子を私達はただ見る事しかできなかった。


 谷川さんは少し赤みが差した顔で、依月さんを見上げて空になったグラスを差し出した。

「依月くん。もう一杯同じのを」

「たくっ……。きたねぇ飲み方してんじゃねぇよ」


 その言葉は多分、谷川さんに聞かせるために零したものではないだろう。

 けれど、私の耳にははっきりと聞こえた。言葉とは裏腹に、どこか柔らかさを帯びたちぐはぐな声色で、私の耳に届いてきた。


 やっぱりここの人が優しいのがよく分かる。こんな雰囲気なのに思わず頬が緩む。

 谷川さんは相変わらず暗い雰囲気を、周りにまき散らしている様子だが、いつの間にやら、卒論を書いていたパソコンをしまって、谷川さんの肩をトンっと叩いてどうやら励ましているように見えた。

 なんだかんだここにいる人達は目の前で困っている人を放ってはおけないのだ。


「ほらよ」

 炭酸が抜けないように混ぜられたハイボールを、谷川さんの前に置く依月さんを谷側さんが見上げた。

「すまない……」

「急に謝る意味が俺には意味わからんのだが?」

「意味なんてないよ。なんとなく……かな」

「は?なんだそれ気色悪いな」


 そういって、谷川さんの前に自分のグラスを掲げる依月さんの顔には笑みがこぼれていた。それにこたえるように、谷川さんもグラスを片手に持ち持ち上げる。

 二人のグラスがコツンとぶつかる時、グラスが三つに増えていた。


「私の事も忘れんでくださいね。お二人さんっ」

 にこやかな笑顔を浮かべて、二人の間に入って美味しそうにハイボールを飲む沙華さんの姿と、しょうがねぇと言った様子で頭を掻く依月さん。

 そして、どこか雰囲気の柔らかくなった谷川さんの姿を遠目に、私も思わず頬が上がる。


「藤乃ちゃんもこっち!」

 手をぶんぶんと振って私を誘う沙華さんのいう通りに私もその輪に加わる。

 この三人の付き合いの長さに比べれば私の付き合いなんてせいぜい、三か月と言ったところだけど、それでも今の私にはちゃんと居場所と呼べる場所がある。

 何気ないやり取りの中でそのことを改めて感じた瞬間だった。

 私は多分そのことに気づけて幸せなのだと思いながら、今日も貰い物の少し氷の解けたハイボールで唇を潤すのだ。



 結局、あれだけ負のオーラをまき散らしていた谷川さんも、お酒の力でいつもの調子を取り戻し、結局いつものようにみんなで話しつつも私以外の三人のお酒がお代わりされた頃、私は当初の目的通りにあの手紙の事を切り出した。


「そいえば、谷川さん、これ見て欲しいんですけど」

「ん?なに?」

 今日は少しお酒の周りが早そうな谷川さんに、昨日の夜見つけた茶封筒を差し出した。

 谷川さんは私からそれを受け取るや否や、中身の紙切れを見始めた。

 谷川さんなら何か、分かるかもしれない。そんな淡い期待。

「これはいつ?」

「昨日です。私の家のドアに挟まってました」

 ありのままの事実を話すと谷川さんは少し黙って動かない。

 心あたりのようなものがあるのだろうか。


「これは、切手も消印も、それに準ずるようなものがない。つまり、郵便を使わずにに届けられた事になる」

「そうなんだよな。そこがなんか気味わりぃよな」

「私もそう思うけど。藤乃ちゃんは河本って人からじゃないかって、言ってるんだけど。谷川さんはどう思う?」

 再び何か考えている様子の谷川さん。


 一体どういう答えが返ってくるのだろうか。その答えを待っていると、谷川さんが椅子を180度回転させて、私の方へ振り返る。

「藤乃ちゃん。僕も君と同じく。――河本が書いたものだと思う」

 断言する谷川さんの表情は酒の匂いを感じさせないくらい真剣なものだ。

「その根拠は?」

 依月さんが、そう切り出すとまた少し考えるそぶりをみせる。

「うーん。こんな内容の文書を書いて、なおかつ、それを郵便局の力を借りずに藤乃ちゃんの家にわざわざ持っていくなんていうのは、そもそも住んでる場所を正確にしっている必要があって、さらに、そんな面倒な事をしてもいいという強い動機がいる。

 僕が奴を追い求めて、真実を見つけるとか、藤乃ちゃんみたいに全てを賭けてでも殺したいと、復讐すると決めたくらいの強い動機がね」

 だから、河本が書いたものだと、谷川さんは言う。

「どうする?行ってみる?」

 私を見据えた谷川さんがふざけた様子を一切感じさせない声色でそういった。


 私もそうだと思う。

 であるなら、これに応えて、私も再び六本木の、河本の根城と思われる一室に行くべきなのだろう。


 けど、そこにはきっと、冬馬さんもいる。

 私は今更どんな顔で会えばいいのだろうか。

 突然何も言わずに私の事を放り出して、元の居場所に戻ったのはどうしてなのか。

 私はまた一人になった。そんな揺蕩う私を沙華さん達が掬い上げてくれて今がある。そのはずなのに、私の気持ちはどうして彼に傾くのだろうか。

 出会うきっかけとなった河本への復讐心が揺らぐほどに、冬馬さんが私の暗い心をかき乱す。どんなに拭っても落ちないくらいにべっとりと私の体に染みついた醜い憎しみが抜けていく気がする。

 この気持ちにラベリングできたなら、それがきっと恋と言われるものなのかもしれない。

 紫陽花の便箋に思いをのせて、谷川さんにそれを託した。

 一夜の気の迷いであんなもの書いたと思っていたのに、多分違う。

 私はきっと、もう自分の気持ちに気づいている。もうほとんど他人の心の声が聞こえなくなるほどに、きっと私の心はキャパオーバーなのだ。

 私は私の事すら、いや、私の事だから制御できなくなっている。

 ただそれだけだ。

 私は自分に嘘を付いていた。もう嘘という名の麻酔の効果が切れかけている。ただそれだけだ。

 後は自分自身が認めてしまえばいい。

 けれど、その勇気が出ない私はその嘘に酔って、くだらない見せかけの復讐心にもう少しだけ縋りつくのだ。

 ほんの少しの勇気が持てるまでは。


 結局、その日私の中で再び六本木へ言われるがままに行くかどうかの答えは出なかった。

 谷川さんも別のネタで河本を調べると言っていた。

 今度は義理なんか通さないと、ドブネズミと揶揄されても仕方ない、だから今度は、手紙は届けられないと私以外にも聞こえる声で言ってのけた。


 沙華さん達は面白半分で手紙の事を聞こうとしているそぶりを見せていたけれど、

 聞いてはこなかった。拍子抜けしたけれど、きっとあの二人の優しさだろうと良いように思う事にした。

 いずれにしても、私が回答出すための時間はもうあまり残ってはいないのだろうということだけは動かない。

 昔の夏休みの宿題より、重たい課題に私は一晩中、営業中も頭を悩ませつづける。

 オーナーさん達には悪いが、このお店があまり繁盛していなくて、今日だけは良かったかもしれない。







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