6

「もう大丈夫。ありがとね」

 そう言って、頭の上でさらさらと髪の毛に触れていた私の右手を払いのけ、顔を上げる沙華さんの目にはもう涙の痕跡は消えていた。


「ごめんなさい。私言い過ぎでした」

「……ううん、そんなことないよ。藤乃ちゃんの言う通りだったと思う。だから、気にしないで」


「でも――っ」

 ひらひらと手を左右に揺らす沙華さんはどこか憑き物のとれた清々しい表情を浮かべてそう言うが、私が触れられたくない沙華さんの部分に土足で踏み入って荒らしたことには変わりないのだ。

 だからこそ、形の上でも謝っておこうと思うのは私の考えすぎなのだろうか。


「いいのいいの。私だって藤乃ちゃんにひどい事言ってたし?それに私の方から色々言ってさ、大人げないなって。これじゃ、依月さんの事も馬鹿にできないなって思っただけだから」


 沙華さんが明るくそうは言うものの、ここまで人のパーソナルな部分に踏み込んで強く言ったのは生まれて初めてで、どんな反応をするのが正解か分らないのが悲しくもある。

 こんな事を思うくらいならもっと視えるものに頼らずに人とのふれあいをしておくべきだったのかもしれないと思うが、こればっかりは、もう二十歳の自分がそう思うには少し遅いと自嘲するしかない。


「もう、変な顔して下向かないっ!さっきの方がいい顔してたよ?」

「――んぺっ!?」


 私の両頬を手で挟んで押しつぶす沙華さんの綺麗で大きな切れ目な瞳と目が合った。

 そして飛び出す変な声。

 押しつぶすと変な音のなるアヒルのおもちゃの方がまだマシな音で鳴くと思う。


「ふぁ、ふぁんれふは?」


 沙華さんの突然の変な行動に疑問の声を上げる。

 すると、束の間、目尻に見えた雨は上がり、柔らかな月光に煌めく髪を泳がせて沙華さんらしい柔和な笑みで私の瞳の奥底を覗かれて、気恥ずかしさを感じる。

 しかし、目線を切ろうにも両頬をしっかりとホールドされていて、私は目線の行き先を失い、彷徨わせてしまう。


「なんで藤乃ちゃんがそんな沈んだ顔してるのかなって。私にあれだけの事言った人がそんな自信なさげに暗くならないで」


 私の両頬を開放して、沙華さんは私の頬に名残の暖かさを残し、ゆっくりと後ろへ下がり、私達の間には人一人分の隙間ができる。


「私は藤乃ちゃんに色々気づかされたから。……今度は私の番かな」


 次は何を言われるだろうかと身構える。沙華さんは一拍空けて、表情を変えぬままに言葉をつなぐ。


「藤乃ちゃんはむつかしく考えすぎ。冬馬くんの事。……もう小さな子じゃないんだからさ、はっきりした方がいいよ。どっちにしても――今のこの一時はいつだって取り戻せないんだから」


「――」


「それだけ。もどろっか藤乃ちゃん」


「……そうですね」


 今度は私の方が言葉を失う番だった。

 沙華さんのその言葉は今の私には一番痛い言葉そのものだったのだから。


 私は新たな積荷を心に積んで、あの煙の燻る狭い店内に戻るのだった。







「――それで。これがその時の資料で、こっちが金の流れまとめたメモ」

「こいつぁ、すげえもんだな。よくも国税に見つからなかったもんで」

「そこは闇献金とは言え、あくまで、献金だから。たぶん動くとしたら国税よりも、検察の特捜部かもね」

「うーん、これって献金の代わりに口利きしてやるってやつだよな?やーさん達よりすげぇシノギの発想だな」


 私たちが屋上で、想いを暴露試し合い、私が、新たな悩みの種が心に発芽した頃、残った大人たちの会話の中に進展があったようだった。


「戻りました!」

「おう、紗華、藤乃お帰り」

「二人ともおかえり~。もういいの?」

「はい!私は!」


 出迎えてくれた依月さんと楓香さんに吹っ切れたような声で返す紗華さんとは対照的に、私の心の中にはもやもやとした思いが滞留していた。

 さっき、紗華さんが言っていた言葉の新依はなんなのだろうか。

 私に一体何を求めて、何に築いてほしいのか。分からないフリをして、

「私も大丈夫です」と出迎えてくれた。二人に笑いかける。


「で、さっきからシノギとか献金とかきな臭い単語が聞こえてるんですけど、あのおじさ……、お兄さん達はなんの話してるんですか?新しい商売始めるとかですか?」

「っふ……っ。おじさんって……」

「紗華、楓ちゃん達よぉ。おじさんはやめてやれや。谷川はともかく峰はお兄さんって言ってもギリギリ行けると思うで……」

「……、一番はてめぇだ。クソジジイ」

「なんか言ったか?」

「いや、なんでもねぇ。耳が悪いだけだろ」

「お前に言われとうないわ。アホんだらぁ!」


 沙華さんのおどけたような問いかけは、いつものようにオーナーと依月さんの言葉の突き合いを誘発した中、そんな人たちにおじさんと認定されて苦笑いを浮かべ、先ほどまでの会話の中心にいた谷川さんがこちらに目をやって苦笑いを浮かべていた。

 私はさっきの話をちらっと聞いた限りではあまりいい予感はしない。

 なにせ、この人は私や冬馬さん、そして私以上にあの河本の事を知っているのだから。


「まぁ、おっさんなのはいいんだけど……。っと、そうだそうだ。さっきから話してたのは、これの事」

 そう言って谷川さんは、テーブル席の上に広げた資料を綺麗にまとめ、私と沙華さんのいるカウンターの方まで持ってきてくれる。

「……見ても?」

「どうぞ?」


 恭しく本人から了承を得たところで、私と沙華さんは、先に皆が目を通したであろう束ねられた資料の一枚目に目を通す。

 そこで気づく。私の予感は間違っていなかったと。

 同時に、この人からこの件に関してただならぬ執念の匂いを感じ取る。


「――その資料はとある政治家と、その人物の政治資金団体の元締めへの企業献金疑惑を調べてた時に見えてきた奴らの相関図と一連の流れに関係ある人の略歴の帳簿だ。僕はこの記事をどんな手を使っても世に出すのが記者人生の目標だ。だから……」

 谷川さんは小さく息を飲む。そして吐き出して言葉をつなげる。

「協力してほしい。そのかわり、君にはもう一度冬馬君と会えるように約束しよう」



 資料には丁寧な筆跡でまとめられたものや、パソコンで作成されたと思われるものが混在していた。

 その中には、私が河本の下に辿り着くために接触をした七星建設の元財務部の西条や、第三営業部次長の高城のほかにも、所謂ゼネコンと言われる企業の肩書のある人や、官僚、果ては現職の政治家に至るまで、この国の経済・建設に携わる多数の人間がリストアップされていた。


 谷川さんが口にしたその事実を私は驚く程に自然と受け入れられていた。

 私自身、河本の周辺から調べているうちにどこかそんな気はした。

 確かに、私はいかに大きな集団に喧嘩を売ったのかと、自分の執念深さには驚くが、それよりも気になる事が一つ。


 河本の周辺人物と相関図の隅に記された、他の人とは違い、なんの情報もなく『穂高冬馬』とだけ記された冬馬さんの事。


 あの人は今何をしているのだろうか。あの人の正体はなんなのか。

 そのことばかりが無性に気になっている。


 沙華さんから言われた一言。

 ――はっきりした方がいい。もう子供じゃないんだから。

 その言葉を反芻し考える。


 次に会った時、私は冬馬さんにはっきりとした答えを言えるのだろうか。

 けれど、自分の心の中にはあの人が住み着いて出て行ってくれないのだ。

 面倒くさそうにぼやきながらも朝に弱い私の朝ごはんを作ってくれるあの人が。

 私に咎められ、頭をボサボサと掻いて外でハイライトを蒸かすあの人が。

 それはきっと、そういうことなんだと思う。


 もう子供じゃない。選挙権もあれば、法の裁きで実刑を受ければ実名報道だってされる。私がもし当初の目的通り河本に一矢報いることが出来ていたのなら私の名前は殺人犯として全国を駆け巡っていただろう。

 そんな歳なのだ今の私は。


「どうかな。藤乃ちゃん」

 長い私の沈黙に押し出されるような谷川さんの問いかけに私は視線を上げて、谷川さんと対峙する。


 確かに実名報道されたりするような歳かもしれない。

 けれど、この気持ちの真意が確かめたくて、冬馬さんにしても河本の事にしても、

 このまま何もせずに時間を浪費するよりは遥かにいいと思う。

 だからこそ私は――


「私も目的がありますから。よろしくお願いします」


 静かに、けれど強く言い切って谷川さんの手を握った。


「これは責任重大かもね。……でも僕にも目的があるから、こちろこそよろしく頼みます」

 そう言って、谷川さんもまた私の手を強く握り返してくる。

 これでもう後戻りは出来ないのだと自覚する。

 元より、する気なんか一つもなかったけれど、私以外の人の運命まで私は背負ったのだから。




 その日、私は自身の出自の全てと、三か月ほど前に一人で河本を殺そうとし、失敗したことを皆に告白した。


 他の人は皆驚いていたが、谷川さんだけは落ち着いていた。どうやら冬馬さんに私達が出会った経緯を全て知っているらしかった。

 そして、私が偽名を使い、いろいろな男から情報を抜き取っていたということも。


 そして、谷川さんは続けた。河本は、自身が襲撃されたことを外部にリークした近臣を処分し、その事実をもみ消し、代わりのネタを提供し、記者たちにも緘口令を引いたと。


 私は河本の意図の分らぬ行動に頭を悩ませ、

 のちに出て来た歓迎用のフルコースを堪能しているうちに歓迎会はお開きとなった。


 最後に残ったお酒をグラスに注がれる。

 今日この時を持って、私達は、国に喧嘩を売ることになる。

 そのお酒の味はとてつもなく煙たく、薬のような味のするものだった。





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