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「あ、藤乃ちゃん……だね。さっきぶり……」

「えっと、あっと……そうですね」

 気まずい。先程あんな事があって気まずくない方があり得ない話なのだが、詳しく事情を知らない谷川さんと峰浦さんまで、居心地が悪そうにしているのが視界の隅に映った。二人ともごめんなさい。私も何とかしたいです。ここから逃げたいです。

 そんな言い訳を胸の内でして、目の前のカウンターに立つ沙華さんと対峙する。


「「……」」


 互いに無言のままに気まずい時が流れる。正直仕方ないのだが、やはり先ほどの会話、というか一方的に告げられた事がお互い尾を引いているのだろう。

 紗華さんからも気まずいといったことが伝わってくる。きっと国立のお店でのことを気にしているのだろう。

 かと言って自分から何かを言うのも憚られると思い、沙華さんの出方をうかがっている時だった。


「ったく!たいぎぃのう!お前ら。酒飲むとこでそんなので居られたら酒が不味くなるわ!外行っとれや!」

 いつもより不機嫌そうなオーナーがカウンター奥の非常階段の方を指差し、そう告げる。

「……まぁ、確かにそうかもね、私は邪魔とは思わないけど、二人にとって私達の方が邪魔だろうしね」


 谷川さん達とテーブル席で飲んでいた楓香さんも非常口の方を人差し指で指し示し、二人きりで話して来たら?という旨のジェスチャーを私にしてくる。


 谷川さんと峰浦さんはなにやら立川で女の子のレベルの高いお店の話をしているようで、先ほどから本指名とかそんな単語がよく聞こえてくる。

 私達にはあんまり興味がないようだが、今はかえってその方がありがたい。

 沙華さんからも物言いたげな目で、無言で扉のほうを自信なさげに伸びる綺麗な人差し指でくいっっと指され、

 結局二人に指し示された扉から私達は外に半ば追い出される事となった。





「はへぇ~、意外と綺麗ですね」

 私のどうでもいい呟きが誰にも拾われることもなく零れ落ちていく。

 梅雨時の湿った夜風が髪をたなびかせたかと思えば、体にまとわりついてきて、すでに若干汗ばんできてシャツが素肌に張り付いてくる不快感を感じる。

 この時期の外の空気はジトっとしていて正直好きではないが、これも夜でも汗ばむような蒸し暑さが襲い掛かってくる夏と比べるといくらかはマシだと思う。


 沙華さんの後を追い、ギシギシと金属が鳴く非常階段を上がり、屋上の道を塞ぐ鉄扉の錆びついたフランス落としを不快な高音と共に引き上げて、たどり着いた四階建ての雑居ビルの屋上。

 そこから階下に広がる立川の酒場の明かり。

 それを求めて群がる老若男女の活気ある風景とは対照的に、私達の間に流れる空気は梅雨のこの時期ふさわしく(?)重苦しい。

 正直オーナーたちが面倒くさがって体よく放逐されただけのような気がする。というか十中八九そうだとは思う。

 実際のところ、私がオーナー達の立場だとしたら恐らく同じようにしただろうな。

 その気持ちも分かる。

 そのことに少し不満に思いつつ、自らに言い聞かせている時だった。


「さっきは……ごめんなさい」


 夜風にかき消されそうな小さな声で沙華さんが呟いた。

 綺麗な緋色の髪が風にさらわれ、どんな表情をしているのか窺い知れないが、

 声色からは本当に心からの謝意であることが受け取れた。

 こんな時なんと返すのが正解だろうか。

『いや、慣れてます』っというのも違う気がする。

 かといって、責める気にもなれない。

 事実、気持ち悪いとか、怖いとかいうような指摘は生きてきた中でされたことしかないような状態である。

 だから、今更なんと反応するのが穏便に事を片付けられるだろうかという自分の中に模範解答が存在しないのだ。

 などとそんなことを考え、なんと言葉を返すのか答えを決めあぐねていると、こちらを振り向く沙華さんと目が合った。


「藤乃ちゃんはさ、真っ直ぐ生きてきた自信はある?……私はない」


 そう私に問うた沙華さんの眼は、何か強い意志を現したような綺麗な瞳だった。


「私ね、十六の時、この街に来た。実家で今の家族と反りが合わなくて、ほんとのお母さんが愛したこの街でなら、何かが見つけられるような気がして、たったそれだけで実家飛び出したの。おかしいでしょ?」


 その言葉に私は、肯定も否定も出来ぬまま沙華さんに気圧され、得も言われぬ表情を浮かべてやり過ごす。


「まぁ、別に藤乃ちゃんに今の話を『そうですね』なんて、そんなよくあるような言葉で同意してほしいわけじゃなくて、大事なのはこの後。――私がいかに嘘と体面で塗り固めてきたか、それだけを聞いてほしい。」


 強く、そして鋭い眼光に私は頷くしか無かった。

 私達の間を梅雨時の湿気をまとった風が吹き抜ける。

 目の前に紗華さんの姿を捉えているのに、谷を一つ挟んだように遠く感じるのはきのせいなのだろうか。

 と思った時、静寂。空気が震える。


「あたしは怖かった。この場所を壊されるような気がして、せっかく出来た私の居場所がなくなるような気がして、私がここにいるために、戻ってくるために、……依月の近くで好きな気持ちを抱えている自分を守る嘘が全部見つかる気がして、だから私は藤乃ちゃんが怖くなった。……そして居なくなってほしいと思ってしまった」


 紗華さんの真っ直ぐと私を貫く眼光は、その言葉が決して嘘ではない事を表していた。こんな時にこの気まずい空気をだれか、いや、湿った夜風がさらってくれないだろうか。

 私にはその本心を告げる眼光と、紗華さんが内に秘めた後悔と、自己嫌悪、そして私への恐怖の気持ちが混ざった、気を向けずとも今の私が視えるほど濃い玉虫色の感情がより一層私の胸を締め付ける。


 私がいなければ、多分紗華さんはこんな気持ちを抱いて悩んだり、居場所を失う恐怖に怯えたりする必要はなかったのに。

 本当に悪いのは、私なのに、どうして目の前の緋色髪の気高くて知性のある女性がこんなに悩むのだろうか。

 自分の頭に手に馴染んだ二丁の拳銃を突き当てて引き金を引いたなら彼女は救われるのじゃないかとさえ思ってしまう。

 けれど、私は知っている。

 この人がどれだけ優しいのかを知っている。

 この人がどれだけ、周りの人に愛されてるのかを知っている。

 そして、この人が依月さんに決して報われない恋心を抱いていることも視えている。それはある種、今の私には眩しいものだということも。

 そして、そんな思いを抱えている紗華さんの事を見捨てたり、嘲笑うような人がこのお店の中に居ない事も知っている。

 だからこそ、私は言う。私の事ならいざ知らず、自分が好きな人達の事まで信用できない。私とおんなじの人間不信気味の仮面を付けた見栄っ張りに。

 先の告白から逸らさぬ瞳を見据えて、一つ息を吐く、そして、一気に爆発させる。


「紗華さん。私は確かに人の考えてる事が伝わってくる。私が知りたくないことも。正直迷惑ですよ。そのせいでずっと私は、煙たがられたりするのが当たり前でした。……でも、たまにいいこともあるんです」


「えっ……?」

 紗華さんの苦しそうな瞳が歪み、私から少し逸れるのを見てさらに言葉を繋ぐ。


「人の優しさに触れるときです。事実、私は今日紗華さんに会ってなければたぶんまた、冬馬さんに怒られるようなコーラと菓子パンで生活してたと思います。300円少しのお金で。でも、紗華さんが居てくれたからバイト先まで紹介してもらって……、まぁこの服はちょっと恥ずかしいですけどね。人間だれもが醜いところはありますよ。そしてそれが自己嫌悪の種になる。けどみんな自分の優しさには気づかないんです。今日紗華さんから私はたくさんの優しさをいただきました。だから。紗華さんは自分の悪いとこも見えて、嘘つくために背伸びして頑張れて、無意識に優しさを振り撒ける素敵な人です。私はそう思います」


「違う!そんなんじゃ……私はそれも偽善だからさ、きっとそんな事ないよ……」


 先ほどの鋭い眼光は鳴りを潜め、迷った紗華さんの瞳は行き当てなく屋上の煤けたタイルに向いていた。

 けど、もう一つ、私が言いたいことをぶつける。一番当てはまる自身の事を棚に上げておき、いかに紗華さんが独りよがりなのかを突きつけるために。

 一歩一歩紗華さんに詰め寄って、思いを暴露する。


「紗華さんがどう思うかはもう分かりませんけど、紗華さんが素敵だから、ここの人たちはみんな紗華さんの事が好きなんじゃないですか?――紗華さんは自分を貶めると、依月さん達の事まで馬鹿にしてると。私は思います。

 例えその優しさが偽善でも、私はその偽善とやらに助けてもらいましたから」


 俯く紗華さんの前で紗華さんの表情を除き込む。

 この時期特有の、今にも一雨ありそうな紗華さんの眼尻から一滴零れる。

 それが呼び水となり乾いて割れ目の入ったタイルをぽたりと濡らす。


「私は……、ずっと自分の事を勘違いしてたんだね……っつ」

「ええ、そうだと思います」


 少し自信げにしかし柔らかな口調を意識して。そして私は紗華さんをぎゅっと抱く。


「――っ」


 私の胸元から不規則にしゃくる声ならぬ声が響く。

 胸元に覚えている限り初めての人の温かみを感じて。

 もうすぐ、梅雨本番であると感じさせられる。



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