待てども海路の風は凪ぎ、梅雨の末

1

「はぁ……」

 気のない私のため息が、営業が始まったばかりのまだ、窓から西日が差し込む薄暮前の国立のお店に漏れ聞こえる。

 これで何度目のため息だろうか分からないほどにここ最近の私はこんなものだった。


 谷川さんと”共闘”すると、手を取った日から1カ月。

 事態は驚くほど変化が無かった。

 良くも悪くもなっていない。まさに”無”変化だった。


 というのも、記事を本来世に出すためには裏取りという事実関係を確認して、本当に正しい情報なのかを確認する必要があるようだった。


 まぁ、考えてみれば当然の事ではあるけど……。


 事実の情報を書いたとしても書き方や、調べ方によっては名誉棄損と言われ、逆に窮地に陥ることもあると聞く。だから、慎重に、場合によっては年単位で裏を取ることもあると、谷川さんは言っていた。


 分かっているとはいえ、せっかく決心がついて熱せられた冬馬さんへの気持ちもここまで何もないと、冷め始めて、どうでもよくなってしまうのは仕方ないと思う。


 あの時はまだ梅雨の走りだった。


 それが今や、日に日に気温が上がり、夜も寝苦しくなってきていた。

 今青春を謳歌している人たちは、これから来る夏の匂いを次第に感じて、これから出来るであろう楽しいひと夏の思い出に思いを馳せて、テンションが上がるのだろうが、私の様に夜行性で、大した友達が居ないような人種には、ただ暑く、化繊の肌着が肌にまとわりついて、おまけに電気代もかさみ、さらには自慢の不健康な肌の白さが焼けてしまうというメリットが一つもない時期である。

 そんな事を思うと、日に日に憂鬱になるというものだ。


「はぁ……」

 そんな負に満ちた事を考えながらまたも漏れたため息を垂れ流している時だった。


 ギッっとドアが軋む音がする。


 誰かお客さんか、それとも新しい商品の営業に来た飲料メーカーの人か。

 少し気の抜けていたところでキュッと胸元のリボンタイ結び直して、居住まいを正

 す。


 数秒後、扉が開き、湿った外気と共にお客さんが入ってくる。


「いらっしゃいませ!」

「沙華せんぱーい!四人で来まし……た?」


 扉が空き、私が出迎え、お互いに目が合うと、いかにも先程考えていた青春を謳歌しているような別世界の人たちが驚いたように語気を弱めて立っていた。


「せ、先輩は……」

「……たぶん、裏に居ると、思います」

 しばらくそのまま互いに視線が固まっていると、紗華さんの後輩らしい人にそう問われ、我に返る。


「紗華さん!紗華さんにお客さんです」

 そして、すぐにバックルームにいる紗華さんに伝わるくらい音量をあげて声をかける。


「すぐいくよー!待ってて!」


「だそうです……」

「あ、ありがとうございます……」


 互いに目線をチラチラと彷徨わせて気まずい雰囲気に支配される。

 外のほうで、紗華さんの後輩たちが楽しそうに話しているのが聞こえてくるのに、

 もういっそ外の人たちがなんでもいいから、中に入ってほしい。


 というか、この人はなんで私の事から目を背けては、わたしの胸元や足元を見ているのだろうか。

 どんな事を考えているのだろうか。

 正直あまりいいようには思われていないような気がするが、なんてそんな詮索しようもないことを考えているのも仕方ないかと自身を納得させる。


「――ひぅっつ!?つめたっ!」

「おまたせっ!藤乃ちゃん。……って、なんだ後輩じゃん」


「むぅぅっ!」

「――っっふ、っく……。藤乃ちゃんどうしたの?」


 紗華さんの声が私の耳元で突然聞こえて来たとともに、背中を伝うなにやら冷たい物体の存在を知覚し、慌てふためく私を見て笑いを堪える紗華さんの表情に苛立ちを覚える。

 沙華さんの後輩と思しき人にも訝しげな目線を頂いて、余計に恥ずかしさで頬が熱くなる。


 ここで働き始めて思ったことは、意外にも紗華さんは意外と悪戯が好きなようで、私に対してよく仕掛けてくる。


 いつもは、お客さんの居ないところでやるので、完全に気を抜いていたらまんまとしてやられたというわけであった。

 そんな紗華さんは、背中から滑り込まされた角氷を持って、眉を吊り上げている私の事など見ていないようで、少し憂鬱そうな表情を後輩さんに向けていた。


「それで、大岐おおぎくんが私になんか用?なんの授業のノートほしいの?」

「いや違いますって、ただサークルの前期納会前にみんなで親睦を深めようって言う話ですよ」

「なに?出し物とかの打ち合わせ?あのサークルそういうとこ面倒だよね……」

「それは言っても仕方ないですからねぇ。実際そういう面倒なことも楽しいんですよ」

「ふぅん、そっか。……それで、一人?待ち合わせ?」

「あっ!やべっ。外で待たせたままだ!」

「ちゃんと先輩っぽくなったと思ったのに……」

 慌てた様子で外に向かう大岐さんの背中を、呆れ気味に眺める紗華さん。


 やるなら今しかない。

 先程大岐さんが出て行った扉の方を眺めている沙華さんの背中に忍びよる。

 先程沙華さんに背中に流し込まれた角氷を手の中に隠して、タイミングを計っていると、外で大岐さんたちが盛り上がっているようで、声が漏れ聞こえてくる。

「もう、なにしてんだか……」


「もうなにしてぃ――ひゃぅっ!」

「うおっ!先輩?!」

「大丈夫ですか?」

 よしっ!後ろに組んだ手を握る。

 扉を開け、外の後輩たちの様子を見に行こうとした紗華さんのがら空きになった首に後ろからさっき入れられた氷を放り込んだ。

 ここまでいい反応をしてくれたら、こんな暑い中キンキンに冷えたわたしの右手の努力も報われるというものだ。



「藤乃ちゃん」

「はっ……いぃっ……」

 積もった小さな復讐心を開放し、目的達成した私の後ろから静かな殺気を感じる。

 そして、私は思い出す。勝負の常道を。

 人は勝利を確信した時一番脆さを見せると。

 それは今の私にも当てはまっていて、現に私の肩をくるりと回されて、目の前には穏やかすぎてそれが一層恐怖を震わせる表情の紗華さんが立っていた。


「ちょっと、遊びがすぎるかもねぇ……」


 その日私は、こんな硝煙の匂いとは程遠い恰好と場所で、改めて勝ちを確信しても最後まで気は抜かないと思いなおす事となった。




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