3

 不意の峰浦さんの一言と、狙いすましたようなタイミングの谷川さんの一言で私が固まってしまい、無間の時が過ぎているように思われた時、店内は私に呼応するかのように静まりかえった。


 なんと言えばいいのだろうか。特に冬馬さんの事だ。

 この場を切り抜けられるような言葉を今の私は持ち合わせていないのだから。


「冬馬はどうか知らねえが、沙華は勝手にヘソ曲げただけだ。放っとけ」

 そんな私を救うかのように依月さんが皆に説明してくれた。

 私はふっと小さく息を吐く。

 これ以上、あの空気の中に居たら窒息していたと考えている時、

 カウンターに立ったオーナーが口を開く。


「まぁ、沙華はともかくとして、その冬馬ってやつは誰だ。会ったことねぇな」

「あ、私もないかも。」

「二人が知らないって事は俺も当然知らないってことか」


 オーナーに呼応するように、楓香さんと峰浦さんが反応する。

 さて、どうしたものか。

 ここで変な反応するのも何か勘ぐられそうだ。

 しかし、私の話の流れで現れた人物に対して、私が無反応を貫くのも怪しいだろう。


「冬馬はあれだ。ちょうど二か月くらい前に来てたビリヤードがそこそこのボサボサ髪の兄ちゃんだよ」


 少し困ってどこまで話そうかと考えている時に、私を救ってくれたのはバックルームから顔をのぞかせて、煙草を咥えた依月さんだった。


「ほーん。そんな人がいたのか、今度一緒に酒でも飲みたいね」

「あー、やめとけ。あいつは下戸だよ。峰さんもだが俺たちと飲もうもんなら倒れるわ」

「そりゃ、残念だ……。」

「で、谷川はそいつが来てない事がなんか気になるのか?」

「いや、まぁちょっと気になっただけだよ」

 ただ純粋に冬馬さんに興味をもった峰浦さんとは対照的に、谷川さんが執拗に冬馬さんの話をすることに疑問を持つオーナー。


 私もなぜ、谷川さんが冬馬さんにここまで執着するのかは疑問である。

 確かに何度か国立のお店で二人で話している姿は見かけていたので、突然姿が無くなった冬馬さんのことが純粋に気になっているのかもしれない。

 少なくとも谷川さんからは陥れるとか、作為のような悪意の感情は感じない。

 どちらかと言えば素直に居場所を知りたがってるようだ。


 いずれにせよ真意は谷川さんしか知らないと思っている時。


 8席ほどあるカウンターのちょうど真ん中あたりに座り、オーナーの前で電子タバコを燻らせる楓香さんが、今まで閉ざしていた口を開く。


「まぁ、谷川さんが何をしたいのかはどうでもいいけど。そういうしつこいの辞めたら?」

「すいませんね、職業柄しつこくなるもんで」

「だから奥さんに逃げられたんでしょ。そうやってネチネチいろんなことに値踏みされたら逃げたくもなるって」

「それは今関係ないでしょ!」


 バックルームに買い出しで得た荷物を置いて、一番出入口に近い席に腰掛ける谷川さんは固定砲台から放たれる鋭い口撃を浴びていた。


「全く、祝い事ってのにあの二人は……」

「いいんでしょうか……」

「あぁ。いいのいいの。ほんとに問題があったらオーナーがいうさ。『やかましいんじゃ。おどれらぁ!』ってね」


 なかなかに上手いモノマネだと思う。

 カウンターの後ろに用意された二人用のテーブル席に座る峰浦さんと二人のやり取りを眺めつつ、このしゃがれた低い酒焼けした声をよくもここまで似せれるものだと感心する。


「それより、座れば?」

「えっ?」

「えっ?じゃないよ。座れば?今日は君が主役でしょ?」


 そういって、峰浦さんは自信が座っている目の前の椅子を指差した。

 どうやら、ここに座ったら?とジェスチャーをしているようで、私はその誘いを受けることにした。


「じゃあ、失礼します」

 峰浦さんとの距離感が掴めず、遠慮がちに浅い背もたれにも届かないくらい浅く腰掛ける。

 すると、煙草の箱を開け、一本がにょきりと押し出てこちらに向けられる。

 それを手のひらをなんとなく立てて制止する。

「私、吸わないので」

「珍しいね、大体みんな吸ってるのに。君は夜上がりってわけじゃないんだね」

「夜上がり?」


 何度か聞いたこともあるその単語に私はクビを少しかしげてわからないとアピールする。


 実際のところ、生きるため、そして河本の尻尾を掴むために色んなおじさんやお兄さんと呼べるような成金や金持ちからそう聞かれたこともある。

 まぁ、あまり意味も分からず、かといって私に下心しかなかったり、アクセサリーくらいにしか思っていないような人たちにも興味がなかったので、今の今まで意味は知らなかったわけだが。


「水商売とか風俗とかそういう店で食ってきた人がやめて、昼間あるような仕事で食うことさ。夜から昼に上がるってね、足を洗うって言葉に近いのかもね。俺からしたら足を洗うってなんだよって思うよ。そんなに昼の仕事が偉くて、夜の仕事が悪いのかって思うけどね」


 少し伏し目がちに、テーブルの上の灰皿で燃える煙草を眺めながら、そう呟く峰浦さん。

 確かに、私もそう思うけれど、明確に、その『なぜ?』に答えられるような答えは持ち合わせていない。

 未だに勢いが衰えない谷川さんと楓香さんの不毛な言い争いをBGMに、私も峰浦さんにつられて二人揃って机の上に置かれた灰皿の吸い殻に吸いかけの煙草の火種が、引火して煙が立つのを見ていると、峰浦さんがそれに気づく。


「って、まぁどうでもいい話したね、ごめんね」

「い、いや、私も同じ事思いますから……」

「「……」」



「お前らは初めてのお見合いか!ボケ!」

「違います!」

 カウンターで煙草を蒸かしていたオーナーが私達にそう言った。

 オーナーもなかなか古風な言い方をするものだ。

 でもそんな時代に生きたオーナーは結婚とかしてるのだろうか。

「お前なんか余計な事考えとるな?」

「うっ……」


 なんだ、この人エスパーか?それとも、覚りなのか?いや覚りは私であるが。

 それを差し引いてもすごい観察眼であると思う。

 客商売を長いことやっているような人はみんなこうなるのだろうか。いや多分ならないとは思うけど……。


「ったく、峰も今日は藤乃が主役なんやから暗い空気にしてどうするんや……」

「いや、ごめんって……。わざとじゃないし」

「なぁ、峰ぇ、ごめんで済んだら、この世で、指が飛ぶような人はおらんのんよ……」

「怖いって!オーナーが言うと本気に聞こえちゃうから、堅気じゃないのかなって一瞬でも思っちゃうから!」

「俺は今の今まで堅気じゃなかったことなんかないアホンダラ!」


 じゃれあうようなおじさん二人を見て、今ここに冬馬さんが居たらどんな反応をするのだろうか。

 私のように苦笑いを浮かべて黙って静観するのだろうか。

 それとも、うるさいと言って場を収めようとするのだろうか。

 きっと、多分だけど煙草にマッチで火を付けて、どうでも良さげにすかした態度で黙っているのだろうと思うけど。


 そうやって、谷川さんのせいで今まで忘れていた人の存在を思い出して、もし、ここに居たらなんて仮定の話を浮かべてしまうくらいには気になってしょうがない。

 気にしなければどうってことないのに、いざ気になってしまうと、もう止まらない。

 それが今の私にとっての冬馬さん。


「なんかいいことでもあった?」

「えっ?」

「なんかさっきより口角が上がってるからさ、それだけだよ」

 そういう、峰浦さんだって、さっきの沈んだような何か考える表情から、気持ち口角が上がっているようにも見えるが、言わないほうがいいだろう。


「二人のやり取りがおかしくて、それだけです」

「いやぁ、僕がオーナーにいじめられるの見て喜んでたの?意外とSっ気あるんだね」

「誰もいじめてないわ、お前が要らん事言うからやろうが……」

 呆れたように、呟くオーナー。


 そして、いつの間にか喧嘩じみた谷川さん達の声も止み、再び静かになっていた店内で、カウンターに座る楓香さんが椅子を反転させて、こちらを向いた。

 

 そして問われる。


「その冬馬って子、どんな人なの?」

 私はしばらく考える。今度は交わさない。


 聞き方の違いもあるだろうが、何より、あの人の事を何も知らない人にこれ以上掘り返されるのも癪だった。

「すごく美味しい出汁巻きを作ってくれる、愛想のないニコチン中毒者です」

 だから私は、愛情と恋慕の気持ちを持って皆にそう紹介した。


「……そう」

 楓香さんがそう零したのち、誰も何も言わなかった。

 私はあえて皆の感情を覗き見る野暮な事もしなかった。

 けれど、その沈黙はさっきの沈黙より気まずくなくて、温かく、むしろ心地良い余韻があった。



「よっしゃ、じゃあ。始めるか!」

 沈黙を破るオーナーの掛け声と共に、依月さんがバックルームから出てくる。

 手には大きなコルクの付いたボトルを持って。


「藤乃、これからよろしく頼む!」


 音頭と共にポンっとコルクが飛び出る音。

 これが祝砲となることを祈って。


 私は腹をくくる。冬馬さんにもう一度会う。

 そして今度はちゃんと本人がいるとこでさっきの皮肉と本音交じりの紹介をしてやると誓う。


 初めてのシャンパンは酸っぱさと、ほんの少しの甘味があるものだった。




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