冷たい現実と冷めた自分
1
「それで、その件は……」
「ああ、資金の方も……、から取れるようになった」
「工期と現地の協力会社のスケジュールも取れました」
部屋の中から漏れ聞こえる雇い主とその仲間共の談合を適当に聞き流し、六本木のきらびやかなネオンの一角のビルの非常階段から眼下に広がる繁華街の様子を見降ろして煙草を燻らせる。
約1か月間ほど見ていなかったこの景色も、それから一か月間ほどもすると、何事もなかったような感覚になってくる。
肌にまとわりつく梅雨特有の湿気以外にはなんの変化もなかった。
三か月前、この下のゴミ捨て場から始まった奇妙な関係
ある少女と不思議な同居生活に終止符を打って再び舞い戻ってきて2か月と幾ばくかの日にちが経った。
なんの代わり映えもない日常。
唯一変わったとすれば、過ごしやすかった初夏の気候から一転、少し湿ったぬるい風が街を駆けていくようになったくらいだろうか。もうじき梅雨もあけ、今度は熱風が肌をさらう時期が来ると思うとげんなりとした気分になるというものだ。
もっとも、俺が働く時なんて言うのは、雇い主が起こした面倒事の火消しというか、軽い人消しに過ぎないので、仕事が無い方が平和でいいのだが、毎日一人、もしくはこの部屋に訪れる客と接待で球を撞くのもいい加減飽きる。
今日も白熱灯が立て看板の足元を照らすあの店で、ふざけたバーテンダー達と玉撞きに興じていた方が遥かに楽しい時間が過ごせそうである。
「あの煙草。一本もらってもいいですか?」
煙草の煙を吐き出しながら振り向くと、そこにはスラっと伸びた体躯に、グレージュの髪を肩に触れるかどうかまで伸ばし、そして何より、スッと線を引いたような綺麗な切れ目が目を引く。
何かのレセプションにでも参加するようなミントグリーンのパーティードレスを纏った女性が立っていた。
歳は俺の2~4歳ほど上に見える大人びた同級生のような印象。
おおよそ、ここにいる誰がが囲っている女だろう。
「ほらよ、適当に使ってくれ」
無造作にぽっけの中から慣れ親しんだソフトパックと、マッチ箱を取り出して彼女に渡す。
彼女はマッチ箱を物珍しそうに眺めた後、煙草のフィルターをちょこんと咥え、慣れなさそうな手つきマッチを擦った。
(擦る方向逆だっつうの……)
二度、三度とマッチを擦るが火が起こる様子は全く見受けられないどころか、余計な力が加わったマッチ棒がボキリと折れた。
「ったく、ちょっと貸せ」
横でマッチ一本つけるのに手間取る女を見て、たまらず箱ごとマッチをかっさらい、シュッと擦って火をつけて、長らく咥えられた女の煙草につけてやる。
女の呼吸に合わせて先端の火種が明るく燈るのを見て、マッチを振り火を消すと、遅れて硝煙の香りが鼻腔を刺激した。
「あっ、ありがとうございます」
右手で煙草を挟み、白い煙を吐きながら、再び小動物のようにちょこんと可愛らしくお礼をする女。
マッチが付けれないだけで、世渡りは俺の何倍も上手そうに見受けられた。
だからといってマッチを付けるということで評価されるような世界ではないのだが、できなかった後に、こうやって可愛らしく振る舞えるのは能力だと思う。
人間、容姿や性別、そして出自で求めれられることが違うのだ。……認めたくはないが。
そのことにその不満をぶつけるようにいつもより強く煙草をもみ消した。
「マッチ付けれないってどうなんだ」
「だって、付けたこと無いんだもん」
「花火とか線香とかは?」
「ライターか、チャッカマンがあるでしょ。お兄さんこそ、今時マッチなんて意味わかんない」
どうやらマッチ一本つけずに今まで生きて来たようだった。
考えてみれば火をつけるということにも今は色々な手段がある。今やマッチを擦るというのは昔の人が木の棒を必死に捏ねくり回したり、石と石をぶつけあって火をつけるくらいに、隣の切れ目の目尻に皺を作って笑っている女にとっては、遅れたことなのかもしれないが、それより気になることが一つ。
「『だもん』って……今幾つだよ」
「……21、お兄さんは?」
少し詰まって答える女、うそを付いているのか言いたくないのか、とにかく歯切れが悪い。
「21?じゃぁ同い年だな」
「そっか、同い年か、でも同い年なのにこんな渋い煙草の吸い方するのウケるよ?
初め見た目もおっさんぽかったから、絶対年上と思ってた」
「うっせぇな、金魚になってるやつに言われたくねぇわ。お前、吸ったことないだろ」
「まぁ、無いね。でも気になったから」
「なにが?」
一体何が気になるというのだろうか、この女が気になるということが気になると思い聞いた。
すると、今までみせた可愛らしいおっさん達に愛されるような愛想の良さは霧散して、何かを諦めて、何かを決めたような冷たさを帯びた表情を浮かべて女は答えた。
こんな顔をする女、俺は知っている。今は何をしているのだろうか、ふと頭をよぎる。まぁ、今の俺には関係ないのだが。と思い直して横で煙草を少しずつ吸う女へ意識を戻す。
「なんでこれに高い金かけてまで、中毒になってまで吸い続けるんだろうって、死ぬまでに試してみたかったから」
「それで、なんかわかったか?」
「うん、私には無意味なものだってことは分かった」
突然見せた冷めた表情は鳴りを潜め、また小動物のような可愛らしい声で彼女は、はっきりとそう言った。
「そうか。また高くなるらしいし、ハマらなくてよかったじゃねーか」
「お兄さんもやめたら?煙草」
「うっせぇよ。ほっとけ。……そいや、前にも同じこと言うやつがいたよ」
「へぇ……。彼女?」
「ちげぇよ、そんなんじゃねぇ」
じゃあ何なのか、俺にはわからない。ただ、どうしようもなく心配で、
今も何もない殺風景な一室で気の抜けたコーラと菓子パンという不摂生と、
不規則な睡眠をソファーの上でするという、おおよそ非文化的で最低限度以下の生活をしているであろうあいつの事を思わない朝は不思議と一度足りともなかった。
そのくらい、藤乃との日々は俺にとっても転換点になる出来事だったのだと思う。
もとから終わりが見えていた生活だったとはいえ、名残惜しいと思う気持ちはやはり感じてしまうものだ。
「なんか、お兄さん優しい顔してるね」
「そうか?あんまわかんねぇな」
女が少し茶目っ気のある笑みを浮かべてこちらも見る。
つい小っ恥ずかしくなって、先ほど返してもらったソフトパックから飛び出してきてくれた一本を咥え火をともした。
ヤニの過剰摂取で少し気持ち悪くなるが、今の居心地のわるさに比べたらマシだ。
「いいなぁ、私もそんな風に誰かに思われたらなぁ……」
「お前綺麗だし可愛げもあるし、誰かいるだろ」
適当に流すようにそう呟いた時、隣りの女の雰囲気がまた変わる。
真剣な、ピリっと張り詰めた雰囲気、まるで剣を構え隙を窺う剣術家のようである。
その真剣な雰囲気に押され、咥えた煙草を右手の人差し指と中指で挟んだ時だった。
「じゃあ、そしたら……!お兄さんが、私を――もらってくださいよ」
その出来事に俺の手からポトリと吸いかけの煙草が零れ落ちた。
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