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「そろそろ、一時半か……」
ドライヤーで乾かそうとしていた私の髪も自然乾燥で乾くくらいの時、まだ、僅かに湿った瞳を目蓋で隠して、少し濡れた前に髪をかき上げた彼の言葉に耳を傾ける。
「ですね。……寝ます?」
「そうだな」
それだけの会話。
誰が決めたわけでもなく、私は部屋の隅に唯一ある、小さなソファーへ、彼は床に敷かれた少しくたびれたカーペットの上で身を丸くする。
外の街灯が僅かに差し込むくらい部屋の中で、無言の時が流れる。負の均衡を破ったのは彼だった。
「そいや、お前、なんでそんな強いんだ?……常人の身のこなしじゃねぇよ」
「別に。何もしてませんよ」
その言葉、そっくりそのままお返ししてやりたい。
現に私は貴方に完封されたと言ってやりたい。
あの180秒にも満たない一瞬で、私は嫌と言うほど自分では勝てないということを教えられたと言うのに、今更どの口で言うのか、私にはさっぱり分からない。
「でも、勢いだけだ。いつか死ぬ」
六本木の夜に見せた、例の殺気の様な冷たさを纏った一言。
こちらに背を向けて壁に向かって寝転ぶ彼の顔も心の中も窺い知れない。けど、その言葉は微かな暖かさを帯びていた。
「穂高さん……でしたね。もしかして心配してくれてるんですか?私の事」
「冬馬でいい。あと、別に心配なんかするほど弱くねぇよ。藤乃は」
私の挑発を意に返さず、サラリと私の懐に潜り込んでくる彼、もとい冬馬さんの一言は、不思議と嫌な気にはならなかった。多分、天然の人誑しなのだろうから人の心の隙間を縫っていくのが得意なのだろう。
「……でも、お前はなんかの長所に頼りすぎてるな。それがなんなのかは、わかんねぇけど、自信につながる何かだよ。自信がねぇやつは、何やってもうまくいかねぇもんなんだよ。だからこそ、その長所が突然消えた途端、お前は、自分自身を支える物は無くなって崩れ落ちる……。それだけだ」
「貴方なんかに……」
——何が分かるの。
その一言は私の喉に引っかかって出てこなかった。
ちょうど、冬馬さんが言った通りだ。私は今まで人の心を盗聴して、常に行動の優先権を握っていた。それが例え、どんな若者食らいのエロオヤジだろうと、どれだけ仕事が出来る頭のすこぶる切れるビジネスマンだろうと。皆一様に、私の思考通りに動いてくれていた。なのに、この人だけは、違った。何を考えているかなんて事も分からなければ、死線にも動じない。自分は死なないと思っている無頼の自信家か、或いは、自分はいつ死んでも構わないという本者の無頼。
破滅すら厭わないのか。
私には分からない。
目的の為になら、死んだっていいと思っていた私でも、まだ生きる事の執着を思い出させられたのだ。
完全に呑まれている私の耳に、トツトツと雨粒が窓ガラスを叩く音が聞こえてくる。まるで心を掌握する一族の私が得体の知れない同居人に飲み込まれた事を示しているように、雨足が強くなっていく。
「何考えてんのか、しらねぇけど……早く寝るぞ。寝れる時に寝とかねぇとなんもできないからな」
彼のその言葉が最後だった。
欠伸をしてその後、規則正しい寝息が聞こえてくる。雨音のノイズの乗った彼の寝息をきいていると、頭の尖った思考は沈み行き、私は睡魔の波に呑み込まれるのだ。
その日、国立の街にはたくさんの雨が降った。散りかけの桜を根こそぎ洗い流すような激しく冷たい雨。
私の心に巣食った得体の知れない感情を表したそんな春の嵐の夜だった。
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