管理人さんは玄人の香り(3)

「ここにもいないねえ。私の勘では、まだ部屋にいると思ったんだけどねえ」


 僕は、布団の後ろ側に身を隠していた。この押し入れに奥行きがある事が幸いした。


 襖は、閉まった。


「なにしてるんですかい? 姐さん」


「ううん。この部屋の住人さんが、さっきの私たちを目撃しててね、どこかに隠れていると思って、探してたのよ。どうやらいないみたいだねえ。口封じをしたかったのに」


 な、なんだってー。


「口封じ? 本当に口封じのおつもりだけでこちらに来られたんで? 別の意図であったりしませんかい? 姐さん」


「うん? 続けてくれる?」


「姐さん……今回のも……ただの火遊びなんすよね? それとも真剣なんですかい? どちらにせよ、大事になる前に、身を退かれたらどうですかい」


「ああん? 何言ってんだい、おまえ。次の発言の次第によっては今日、死ぬよ?」


「あ……姐さん、以前に姐さんがお遊びなされてました、A氏もB氏もC氏も、今、どうなっているのかご存じで?」


「そういやあ。最近は見かけないねぇ」


「噂ではありますが、若頭が拷問した挙句、コンクリートに詰めて、湾に沈められたとか……」


 えええええええええー。


「あはははは。馬鹿な奴等だよ。私がちょっと優しくしただけなのに、勝手に勘違いして、熱をあげてくるんだもの。でもね、今回は今までとは違うわけよ」


「今回は、違う、と?」


「今回は火遊びじゃない、ということ。本気なの」


 ………………。何を言ってるんだ、このオバサン。


 しばらく、沈黙があった後、『若い衆』が口を開いた。


「……でも、姐さんの気持ちがどうであろうと、ヤッちまいますよ、若頭は。最近、人をチャカで撃ってねえっつーんで、フラストレーションが溜まっているご様子で……。機会があれば、意気揚々とヤっちまう事は、目に見えています。間違いありません」


「人の命って、儚いもんだねええ。死……。でも、それもまた一興かもしれないねえ……」


 その後、大家さんと『若い衆』は、部屋を出ていった。


 ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。


 僕は心の中で盛大に叫んだ。


 この日、僕は頃合いをみて、そそくさと、逃げるように学校に向かった。自分の住んでいるアパートから逃げるように学校に行くだなんて、まさかそんな経験をする事になるとは予想外である。早急にこのアパートを引っ越す必要性に駆られた。


 帰宅後、いつものように宿題をして過ごしていると、大家さんは、普段と変わらない様子で、作り過ぎたと言って料理を持ってきた。


 その翌日も、同じように一日が過ぎた。


 事件は三日後に起きた。


 ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。


 チャイムが鳴り続き、いつものように、大家さんが勝手に鍵でドアを開けて、中に入ってきた。


「………………なんですか。今日はファーストフードを食べてきたので、料理はいりませんよ。というか、今後はもう、そういうことは……」


 止めにしてもらいたいのです、とはっきり言おうとするも、本日は何も持ってきていない事に気付いた。


「桜田くーん。きょうは料理じゃなくて、もっと素敵なものを持ってきたのよ。素敵なプレゼントをね。実は今日、私の誕生日なんだけど、誕生日ってプレゼントもらうだけじゃなくて、これまでお世話になって、ありがとうございますって意味を込めて、こちら側から近しい人にプレゼントを贈ってもいい日なんじゃないのか、って思うわけ。それで、いつもの料理より、もっーーと素敵なものを持ってきたの」


「もっと、素敵なもの?」


「それは桜田くんと、私にとって、とてもとても大事なものになるはずです」


「は、はあ……」


「じゃじゃーん。離婚届でーす」


「………………」


 見ると、確かに大家さんの名前と、その夫らしき人の名前が書かれている。


「? ? ?」


「私、考えたのよ。そして、桜田くんとは、火遊びの関係では済ませたくないと思ったの。本気でね、好きになってしまったみたいなの。これまで、たくさんの男と交際してきたけれど、こんな気持ちになったのは初めてなのよ……」


「は、はあ……」


「こんな気持ちのまま、あの人と夫婦として、続けていけないと思ったの。だから離婚したの」


「早い! 決断するの早過ぎっ! そして、僕の意志は? 僕の意志はどこにいったの?」


 ………………。


 途端に、部屋内に『怖』の空気がピシリと、張り詰めた。大家さんの顔を見ると、般若のようになっていた。


「僕の意志? んなの、あるわけねーだろうが、このクソガキがっ! 調子に乗ってんじゃねーぞ。ああ? 湾に沈められてえのか、てめぇぇぇ。ごらああああっ」


「ひぃぃぃぃぃ。ご、ごめんなさい。調子に乗ってしまいました」


 つい条件反射で土下座して、謝った。大家さんは、般若顔から一転し、ニコリ顔に戻ると、話しを続けた。


「それで、素敵なプレゼントとはベタですが、なんと、私自身ですー。パンパカパーン。桜田くーん、受取拒否の権利は、ないわよ」


「え? え? ええええええ?」


「ハッピバースディ、私! 桜田くん、ほらペン。ここよ。ここに、名前、書いて!」


 僕はよく分からずに、言われるままに、自分の名前を紙に書いた。


「あのー。こ、これはなんでしょうか」


「これは桜田くんと私の婚姻届というものよ。これで正式に、私は桜田くんのものになったわけ。その逆もしかりなのですー。桜田くん、ラッキーよ! 今なら私と一緒に、なんと、小っちゃい子もオマケでついてきまーす」


「いやだああああああああああ」


「ああん? 心にもないこと、口にすんじゃねーぞ。謝罪しろや、このクソブタがっ」


「………………ごめんなさい」


 よく分からないまま、僕は婚姻届にサインをさせられてしまったようだ。


 まあ、僕はまだ未成年であり、日本の法律では、離婚した直後の結婚も出来ないらしいので、与えられた制限期間中に精一杯、大家さんに嫌われる努力をしなくてはいけなくなったわけだが、僕がこの時点で感じていた一番の恐怖は、他にあった。


 いうまでもなく彼女の夫――いや、見せられたコピーではなく、本物の方の離婚届は既に役所に提出したそうなので、『元夫』である『若頭』の存在だ。


 このまま、何事もないとは、到底考えられなかった。


 そして、僕の悪い予感は的中した。僕は拉致られ癖というものが、ついているのだろうか。帰宅途中に、路上を歩いていたところ、すぐ傍にバンが停まると、中から人が現われ、鈍器のようなもので殴られて気絶した。そして目を覚ますと、周囲がコンクリートで囲まれている、窓のない部屋にいた。


 そして、僕の横に素っ裸な状態で血だらけな男がいた。男はずっと僕に向かって土下座をしている。


「ひぃぃぃぃ。な、なに……なんなの?」


 この男は確か、さっき僕を鈍器で殴って気絶させた男だ。ずっと「すんませんでした。すんませんでした」と連呼し続けているのが怖い。


 そして、斜め後ろのパイプ椅子に座っていたのは……若頭だ。一度だけ、見た事がある。


「おう、にいちゃん。やっと、目が覚めたかい。丁重にお連れしろと言ったんだけど、うちのもんが、手荒い真似してすまんかったな」


 若頭は、土下座男に目を向けると、怒鳴り声をあげた。


「おう。起きたぞ。はよ、わび入れんかい。カタギのもんを殴ってからに。これでぶっ放して、指つめえや」


 カランコロンと、銃と1発の銃弾が転がった。土下座男は手を震わせながら銃を取ろうとする。それを見て、僕は焦った。


「いいです。そんな事しなくてもいいですー」


「ほう。だったら、にいちゃんが、代わりに指詰めてくれるっつーんかい。良かったな。お前はもうええで。ひっこんで、ええで」


「な、なんで僕がぁあああー」


 土下座男は、そそくさと、下半部を手で覆い隠しながら、ドアの奥へと消えていった。顔がボンボンに腫れており、青くなっていた。


 なんという世界だ。僕にとっての日常という平和が崩れていく。


 若頭は、落ちていた銃と弾丸を持つと、そのまま、僕の目の前で胡坐をかいて座った。


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