操のピンチ!(2)

 着替えの際、帯の締め方が分からず、先輩に締めてもらった。この時、なぜか前からではなく、後ろから手を回されて帯を結ばれた。これが、普通の締め方なのだろうか?

 更に背中に妙なものが当たった気もしたが……深く考えない事にした。そして……。


「さあ、桜田君。始めるぞ! 俺のやり方はハードだが、是非とも、ついてきてくれ。全てが終わった時には、桜田君が抱えている悩み事なんて、汗と一緒に吹っ飛んでいるに違いない。悩み事がある時は、体を動かすのが一番なのさっ!」


「うっす! 分りました、先輩」


「では……まずは」


「準備運動っすね」


「ちがーーう。寝技だああああ。寝技の特訓だあああ」


 先輩は僕の襟に手をかけ、内股をかけてきた。僕は倒れ込み、その上に先輩がのしかかる形となる。そして、先輩は、僕の体を固定してきた。


「い、いきなり実践っすか?」


「さあ、桜田君。抜け出してみろ。俺の固め技から、抜け出してみるのだ。力を出して、己の限界に挑戦するのだよ」


「う、うっす……」


 先輩の寝技は力強く、僕は身動きの取れない状況となった。しかし、それでも抜け出そうと、懸命に動いた。しかし、とんでもない先輩の剛力で、びくともしない。


 そして先程から、何やら固いものが、僕に当たっていたのだが、それが何なのか、ようやく確信した。きっと先輩は、取組をする時は練習中でも、闘争心によって猛ってしまう人なのだろう。それとも……。


 悪い方の考えは意識的にシャットダウンした。そして、再び、抜け出そうと僕はもがいた。しかし、やはり、どうしても、抜け出せないのだ。


「せ、先輩。降参っす。僕の負けっす」


「だめだだめだだめだ。勝敗じゃない。己の限界に挑戦するのが目的だろう。そして、気持ちの良い汗をかいて、ストレスを解消するんだ。だからさ、桜田君、軟弱な事ばかり言ってちゃ、罰ゲームだぞおおおおおおおおおお」


「ば、罰ゲーム……」


 この時、僕はふと先輩の顔を見た。顔色は運動しているためか、高揚しているようだ。そして……ペロリと舌を出して唇を舐めた、そんな先輩の目つきを見ると、まさにエロ本を見つめる男子生徒のような――。


 僕の背筋に電流のようなものが流れた。そして、火事場のクソ力を出した。危険を察知した本能が、そうさせたのだ。僕の本能が、ヤバイぞ、と警鐘をゴンゴンと鳴らしている。


「おっ。おっ。やるなあ。桜田君、こんな力を隠し持っていたのかっ」


「うぎぎぎっぎぎぎぎぎっぎぎ」


 脳が制御していたリミットを次々と突破して、力を上げていく。そして、先輩の柔道着を引っ張ったところ――そこには、予期しないものがあった。途端に、驚きと共に僕は脱力した。


「な、ななななななな、縄っ! 体中に縄がくいこんでる!」


 先ほどから、違和感はあったが、先輩の体には、縄が絡みついていた。これは!


「おーいおいおいおいおい。見ちまったなあ。俺の大事な秘密を見ちまったなあ。フフフフ。桜田君。これでこのまま帰す事はできなくなっちまったよーだ」


「み、見てません! 僕は何も見てませんっ」


「嘘をつくなよぉ。桜田君。見たんだろぉ。これで寝技から解放できなくなっちまったじゃねーか。皆にバラされるのが怖くて、寝技から解放できなくなっちまったよぉぉぉー」


「誰にも、誰にも喋ったりしませんからー」


「ふふふふ。駄目だ駄目だ。でも心配するな。俺が亀甲縛りをしているからといって、いつも『受け』というわけではない」


「は? な、何の話をー」


「桜田君、君はまだ初心者だから、『攻め』をするのは辛いだろう。だーかーらー。今日は俺が『攻め』をしようじゃないか」


「意味が分かりませーん」


「さあ、汗を、流し合って、日頃のストレスを発散しようじゃないか」


「た、助けてぇえええええ」


 僕は、腹の底からの叫び声をあげた。しかし、道場の位置関係から、誰も助けにこない。ここは、そんなに人が通るような場所ではない。


 僕は、戦意を喪失させた。あまりにも自分の力のなさに、幻滅し、涙が出てきた。


「先輩、もう、やめてええぇ。やめてくださいよぉぉぉ」


 身を振るわせながら、へぐっへぐっと泣いた。なんという無様な様子なのだろうかと、自分自身情けなくなるも、こうすることしか、僕にはできなかったのだ。すると、先輩は固め技を解いた。そして、僕の肩をポンポンと叩いてきた。


「なーんてな。ふはははははは。ビックリしたか?」


「えっ?」


「おーいおいおいおい。俺が、そんな強引に事を進める野獣だと思ったのかよ。冗談だよ。冗談に決まってるだろーが。亀甲縛りは、単なるおちゃめなファッションさ」


 なぜ先輩が亀甲縛りをおちゃめなファッションとして、自身の体をきつく縛っているのかと疑問に思ったが、すぐにそうした疑問を頭の中から消していった。考えたくなかったからだ。思考が意図的に、都合のいい方向へと、余計な情報をシャットダウンした。


「じょ……冗談だったんっすか……よかった。僕は本気で……」


 先輩は僕の腕を取って、立ち上がらせてくれた。


「冗談さ。にしても、まさか泣くだなんて、思ってもいなかったよ。わりーな。でもな、俺が君のケツを狙っていた事は、冗談じゃないんだぜ?」


「ひぃぃぃぃ。そんな事、初めて聞きましたー」


「前々からカワイイ奴だと思っていたんだよ。桜田君は中性的な顔だからなぁ。格好いいわけでも不細工というわけでもない、まさに普通顔。しかし、そこがいい! どうやら俺は桜田君に一目惚れしてゾッコンになっていたようなんだ。ここのところ、どういうわけか寝ても覚めても桜田君の事ばかり考えてしまっている俺がいる」


「ゾ、ゾッコンにならないでー」


「自分でもこのことに気付いた時には驚いたさ。悩んださ。だから、桜田君に会わないよう、委員集会にも出るのを止めて、ひたむきに部活に集中しようとしていたが、上手くいかなかった。そんな折、さっき、落ち込んだ様子の桜田君を見つけて声をかけたというわけさ」


「そ……そうだったのですか。な、なんと言っていいのやら……」


「っで、俺は前向きに考える事にした。桜田君、必ず俺が君を攻略してみせるぞ。ふふふ。BLエロゲなどでは、誰でも、最初はイヤイヤとそう言うものさ。しかし、嫌よ嫌よも好きのうち! 徐々に、君は戸惑いながらも俺に惹かれていくのさ。そうなった時に俺は、こう告白するんだ。俺たちのような存在が認められているところに行き、『同性パートナーシップ証明証』をもらおうとっ!」


「ひぃぃぃぃ。やめてええー。攻略なんてされませんからーー。証明書って……結婚なんてのも、しませんからー」


 僕は、一目散に道場から逃げ出した。自分の制服を拾い上げて、先輩の柔道着を着たままで。


 翌日、僕は学校を休んだ。


 その更に翌日も、僕は学校を休んだ。心理的なトラウマが植え付けられたからだ。僕の心はそれほど繊細でないが、図太いわけでもない、一般平均な強度なのだ。童貞というか……操を奪われかけた経験をしたのだ。心の休息が必要だ!

 三日後、僕は仮病で、いつものように学校を休み、ベッドに寝転んで、本を読んでいた時だった。部屋のドアが開き、母が顔を覗かせた。そして、予想しない事を言った。


「お友達が来てるわよ」


「え? 友達?」


 僕がそう聞き返したところで、母の背後に人影が現われた。よく見るも何も、僕を襲った先輩だとすぐに分かった。180センチの巨体なのだから。


「ひぃぃぃぃいいいいいい。何で家にいるのー」


 先輩は、母に向かってニッコリと微笑んだ。


「お母さん、僕達はただの友達なんかではありませんよ」


「あら? そうだったの? だったら、どんな」


「簡潔に言うのならば、朋輩……もしくは、掘り合う仲とでも言っておきましょう。友達なんかという言葉のくくりではおさまらないのです」


「へー。そうなのー。ふーん」


 母は頭にクエスチョンを出しながら、全然わかってないくせに、わかったような顔をして頷いた。そして、パタパタと階下へと降りていった。


「ちょ、ちょっと。二人っきりにしないでー」


「おーいおいおいおいおい。何を照れているんだい」


 先輩は僕を見つめながら、部屋のドアを閉めた。そして、舌を出して、ペロリと上唇を舐めた。


「ひぃぃぃぃぃぃぃいいいいい。怖ーい。一体何しに来たのー、何しにきたのさー」


「そんなに怯えないでおくれよ。俺だって桜田君の部屋に入って怯えてるのさ。小心者な俺だから、迷惑をかけた桜田君の前に立つだけで、緊張でガクブルなんだよ。用件はこないだの詫びと、これさ」


 先輩は、懐から手帳のようなもの取り出して、僕に手渡してきた。見ると、僕の学生証だった。


「こないだ大急ぎで柔道場から出て行っただろ。その時にポロリと落ちたんだよ。俺はそれに気づいて、追いかけたんだけど、桜田君、俺の呼び止めを一切聞こうとせずに、全力疾走で去っていっただろう?」


「あの時は、心底怖かったですからっ。……って、なんでさりげなく、手帳に先輩の電話番号が書いてあるんですかっ!」


 学生証にふせんがあり、そのページを開いたところ、先輩の個人情報が追記されていた。


「いやあ、格好いいのか不細工なのか分らない中性的な顔の桜田君のくせに、足が速いだなんて、ギャップ萌えだよ。ギャップ萌えー」


「ギャップ萌えだなんて言わないでくださーい。背筋がぞぞぞぞっと、震撼していますからっ。あと、顔は足の速さに関係ありませーん」


「どうでもいいけどさ、お詫びが言いたくてな。さぞかし、こないだは驚いただろうと思ってさ。俺は申し訳ない気持ちになっていたんだよ」


「そりゃあ、驚きましたよ。心にトラウマも植えつけられました」


「……すまなかった」


 先輩は土下座して謝った。


「確かに強引だった。しかし、俺はこのBL恋愛マニュアルに従っただけなんだ」


 そう言って取り出したのは、同人誌のような薄さの、本だった。


 そしてどこかで見たことのあるPNがその本に書かれてあった。モンスター娘のPNだ。


「………………」


「この本の手引きでは、こないだの手順で、桜田君が堕ちてくれるはずだったんだけどなあ。まっ、所詮は、デタラメ本だったわけだ。とはいえ、俺はこの本のおかげで、自身の新たな一面に、気づかされたわけだけどなぁ」


「この本はどこで手に入れたのですか?」


「ん? 柔道場の着替室のテーブルの上に置いてあったぞ。第一発見者が俺で、あまりの衝撃的な内容を見て、こっそりと鞄に入れちまったけどな。きっと、部員たちの誰かの本に違いない……悪い事をしたと思っている。まるで泥棒だなあ、俺って」


「いえ、おそらくは部員さんのものではないと、思いますよ」


「なんで、そうだと分かるんだい? 桜田君」


「何となくですが……。そういえば、話は代わりますが、僕の同級生で有名アイドルの妹がいるのですよ」


「おお。知っているぞ。学校で有名な子だ。数ヶ月前から、よくうちの部員に、部内で人間関係なんかで変わった事はなかったかと、尋ねてきたりしているみたいなんだけどさ」


「そうっすか……」


 確実にそうだとは言えない迄も、一つの可能性が頭に浮かんだ。僕の勝手な考えだが、モンスター娘は、同性と毎日肌を合わせている柔道部に、BL男子がいるかもしれないと期待し、こっそりと自分の描いた本を忍び込ませたのだろう。そして、思惑通りに、誰かに拾われた。ただし、肝心の誰が、本を拾ったのか分からず、モヤモヤしていたのだ。先輩には、さすがに、僕の知り合いの悪ふざけの一つです、とは言えなかった。この本の影響を受けたせいで先輩が、一般的な価値観においての人道を踏み外したのであれば、なおさらだ。


「この本にはな、インチキな事が書かれてあるだろうが、俺には、納得できる点もあったんだ」


「納得できる点ですか? そんな記述、本当にあったのですか?」


「肉食系でガツガツ行くべし。もう一つは、ヤッちまえばこっちのもん、ってとこ」


「その、どっちも、納得しないでー」


「あと、俺は桜田君にプレゼントがあるんだ」


 先輩は、僕に、とある箱を渡してきた。それは……。


「痔の……薬?」


「最初はもしかしたら、血が出るかもしれないからさ。あっ。心配しなくてもいい。徐々にとろけていくからさ」


「一体、何の話をしているんだ先輩っ、あんたはっ!」


「さあ。桜田君、痛いのは最初だけさ。軟体動物のように力を抜ききってくれ」


「だから、やー・めー・ろーーー」


 先輩が、僕の寝ているベッドにジャンピングしようと屈伸した時、部屋のドアが開いた。母である。


「ねえねえ、君。夕飯食べていく?」


「はい。お母さん。是非、ご馳走になります」


「すぐに帰れー帰れ―」


 どちらにせよ、助かった。


「何がいいかしら。今からお買い物に行くんだけれど」


「そうですね。できれば精のつくものがいいですね」


「精のつくもの? うなぎとか?」


「はい。亜鉛が含まれている食材もいいですね。魚か何かの精巣であれば、グッドです」


「白子がいいわけね。分かったわ。おばさん、奮発しちゃう!」


「タンパク質もたっぷりと補給させてください」


 僕は立ち上がって、先輩の背中を押した。部屋から追い出す。


「大暴落だっ! 帰れー。もう、帰ってくれ―」


「おいおい。つれないなー」


「うるさい! もう、帰ってくれー」


 僕は、力の限り背中を押して、先輩を部屋の外へだけではなく、玄関の外へとも追い出した。


 さらに、塩も撒いてやった。

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