恐怖! 闇女(1)

 僕は週一で備校に通っている。大手の予備校の100人以上も収容できる大教室で、人気講師の講義を受講しているのだ。


 その授業中、ふと足元に消しゴムが転がってきたことに気づいた。僕がそれを反射的に拾おうとした時、誰かの手と触れ合った。


 顔を上げたところ、僕の体は沸騰した湯の入った茶碗のように、一気に熱を持った。そこには、篠田さんがいたからだ。僕は消しゴムを拾うと、彼女に手渡した。すると、彼女は「ありがとうございます」と囁きながら、微笑んだ。僕は天にものぼる幸せを感じた。


 僕は篠田さんに恋をしている。彼女はかつて行きつけだった喫茶店でウェイトレスのアルバイトをしている。僕は彼女を目当てに、足しげく通っていたが、とあるモンスター娘のせいで出入り禁止を言い渡された。それ以降全くのご無沙汰となっていた。


 オーダーの時以外は声も交わした事のない彼女の天使のような声を久々に聴けて、僕の心は舞い上がる。


 その後の講義内容は、正直覚えていない。講師の声が片方の耳から入り、もう片方の耳から出ていくという状態だった。受講料の無駄だ。しかし僕は、この幸運を与えてくれた神様に強く感謝した。


 僕と彼女の関係が急接近したのは、思えばこの瞬間からだった。


 一週間後、いつものように予備校の講義を受けた後に、ノートなどをカバンの中にしまっていた時だ。篠田さんが僕のそばにやってきて、なんと、話しかけてきた。


「あの……。御勉学、お疲れさまでした」


 僕は突然話しかけられた事に驚いて、何も言い返せなかった。片想いの高嶺の花でもある意中の女性に、声をかけられたから、当然だろう。


「どうしましたか?」


「い、いえ……すみません。お疲れさまでした……」


 僕は軽く会釈した。顔も真っ赤になっていることだろう。


「うふふふ。突然話しかけてしまい、申し訳ありませんでした。驚かれましたか?」


「はい、正直に言うと、驚きました」


「驚かせてしまい、お詫び申し上げます。実は今日、お礼をさせて頂きたいと思いまして……」


 首を傾げた。なんのことを言っているのだろうか。


「お礼ですか? 僕、何かお礼をしてもらうようなことを、しましたっけ?」


「ええ。して頂いておりますわ。ほら、覚えておりませんか? 先週のこと」


 脳細胞を総動員して、記憶を辿った。お礼をしてもらうようなことは、何もしていないはずだ。意中の女性が関与している記憶であれば、鮮明に覚えているはずだ。


「先週ですか……特に……落ちていた消しゴムを拾ったくらいしか、してませんけど……」


「そうです。私が落とした消しゴムを拾って頂きました。私はその事に大変感謝致しまして、是非ともそのお礼をさせて頂きたく、実は手料理を作って参りました」


「え? そんな……別にそんな事でお礼だなんて……って、ええええええ!」


 篠田さんは、なぜか肩にかけていたショルダーバッグを机に置くと、中から布に包まれた『重箱』を取り出した。正月のお節料理なんかを入れる、あの容器だ。五段もある。


 篠田さんは重箱を僕の目の前の机に並べていった。中には豪勢な料理が詰められていて、今年のうちのお節料理と比べても、明らかに豪華さで勝っていた。伊勢海老やフカヒレらしきものもある。料理の香りで気付いたのか、教室の他の生徒たちが不思議そう目で、僕達を見つめてきた。


「お口に合えば宜しいのですが……」


 篠田さんは、そう言って頬を赤らめた。僕は混乱した。


「こ、ここで食べるのですか?」


「……確かに、次の講義を受けられる方々がまもなく入室してこられますね。それに、こんなところでは、場違いでもありますよね……度々申し訳ありません」


 そう言って、深々と頭を下げてきた。現在僕がいる大教室は、入れ替え制となっていて、講義ごとに全員が入れ替わる仕組みになっている。なので、僕もそろそろ出なくてはならない。


「TPOを考えずに……。でも、もしよろしければ、一口だけでも構いませんので、召し上がって頂ければ嬉しいのですが……」


 彼女は潤んだ目を僕に向けた。その目を見た僕は、心臓にキューピットの矢が刺さったような感覚を覚えた。


「折角、こんな豪勢なものを作ってもらったのに、食べないと僕も申し訳ないですよ。KYです。では、この数の子を頂きますっ!」


 僕は、手渡された高価そうな箸を手に持つと、数の子を摘まんで食べた。


 彼女は、僕をじっと見つめている。


 モグモグ……モグモグ……。うぅぅっ、ショッパイ……。正直、見た目とは裏腹に、その味は食えたものではないレベルにショッパイ。吐き出したいが、彼女の前で、とてもそんな事は出来なかった。


「ど、どうでしょう?」


 期待のこもった目で見つめてくる。正直者な僕は『旨い』とも『不味い』とも言えず、他の台詞を選んだ。


「他の……他のものも食べても、いいですか?」


 つまり、他の料理を食べて『旨いです』という作戦だ。料理全部がショッパイわけではないだろう。篠田さんは、微笑みながら言った。


「是非、お食べなさってください」


「では、このフカヒレのようなものを頂きますっ」


 続いて僕は、フカヒレのようなものを箸で持ち上げた。とても柔らかそうで、落とさないように慎重に口まで運んで、食べる。


「それ……お味の方は、どうでしょう。実はあまり自信がなくて……」


 見た目はとても良かった。高級料理店からテイクアウトしてきたと言われても、違和感がない。


 ただし、このフカヒレ……ひと噛み、ふた噛みするうちに、これまでに味わった事のないような得体の知れない気持ちの悪さが胃の奥から盛り上がってくる。自信がないと言ったのは謙遜でもなんでもなく、本音のようだ。


「うぐぐぐぐ……」


「ど、どうでしたか?」


「こ、これは……今までに味わった事のないような、そんな味付けです。……よければ、伊勢海老の方も食べてもいいですか?」


「ええ。どうぞ」


 伊勢海老なら、焼いただけといった見た目なので、マズイという事はないだろう。塾の大教室で重箱に入った料理を食べているという不思議な状況はさておき、とにかく僕は嘘偽りない心からの正直な「美味しかったです」を言いたかった。同じように箸を使って、僕は伊勢海老を食べた。


「………………」


 ショッパーーーーーーーーイ! よく見れば、塩の塊のようなものが海老のあちこちに塊となっている。


 一方、目の前の彼女は、僕の感想を心待ちにしている様子だった。僕は思案した後、渾身の食レポをした。


「なんというか、塩加減にオンリーワンな個性を感じますね。もしかしてですが、この海老、とても新鮮なものではありませんか? 身がとてもプリプリしてました……」


 言葉を選びながら、旨いとも不味いとも言わずに『正直な感想』を伝えた。


 篠田さんは、嬉しそうに体を揺らした。


「良かったですわ。伊勢から本日水揚げされたものを、わざわざ取り寄せたのですよ。やはり、このような魚介類は鮮度が命だと思うのです」


「いやあ。堪能させて頂きました」


 そこまで言って箸をおろしたところ、猛烈な眠気に襲われた。


 な、なんだろう。授業中眠くなることはよくあるが、授業が終わると大抵は目が覚める。


「あ、あれ?」


「どうしましたか?」


「いえ、済みません。なんだか、突然、ものすごく……眠気が……」


 大きく欠伸をした。


「あら。大変ですわ。眠りたい時は、無理せず、お眠りになられた方が宜しいのではありませんか? ぜひ、そうなさってください」


「ええ……。しか……し……。こんな場所で……寝るわけ……には……」


「ねーんねんころーりーよー。おころーりーよ」


 なぜか、彼女は子守唄を謳いながら、僕の背中を優しく擦ってきた。なんで、こんな状況で子守唄を謳うのだろうかと、僕の頭は疑問だらけとなるも、メロディーに合わせて瞼が重くなっていく。そしてついに眠りに落ちた。立つ気力さえも失い、そのまま上体を机に預ける。


 次に目を覚ましたのは車の中だった。後部座席にいるようで窓の先では、電灯が流れていく。どうやら走行中のようだ。


 まだ夢うつつの状態のまま、窓の反対側を向くと、隣には、篠田さんが座っていた。

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