嫌なことを忘れられる薬
キリン🐘
第1話
「20数年の歳月を経て、ついに完成したぞお!」
ドリトン新薬研究所から、朝日とともに雄たけびが響いた。
ワタシ、ドリトン博士は凄腕の研究者。この度、とんでもない世紀の大発明をした。
というのもたった今完成させたのは、ものすごい「薬」なのだ
それまでモルモットでの効果は実証されていたが、ヒトには効かない状態であった。
それが、今回、ついにヒトにも効果を発揮する薬が完成した。
今回試した方法はとても簡単で、
今までの薬に、少しの純水を加えるだけ。たったそれだけで完成だったのだ。
ああ、なんでこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう!
ずっと完成がすぐ目の前に迫っていたのに、簡単なことに気が付かずに未完成の状態にしてあったんだ。
水を加える、なんて素人でも最初に思いつきそうだというのに、
いやはやワタシもまだまだだったということか。
ワタシが今回完成させたのは、そう……、
『嫌な記憶だけをすっぽりと忘れられる薬』である。
もちろん効果はテスト済み。
被験者は良かったことや楽しかったことはすべて覚えたまま、嫌な記憶だけをきれいさっぱり忘れていたのだ!
ちなみに、ワタシ自身は飲んでいない。嫌な記憶も、自分を成長させる糧となるからだ。
研究者たるもの、辛いこととも常に向き合っていかなければならない。
ストレスの多いこの現代社会においてこの薬は必需品となるに違いない。
この薬の完成を世間に発表すれば、ワタシの毎日は大忙しになるだろう。
薬の量産体制を整えたり、
テレビ出演のオファーに応えたり、
ああ、他の研究者の無知や妬みによって根拠のない反論に襲われることもあるだろう。
だがそれもじきに収まる。
というのも、この薬の存在を発表した当初は、実は多くの研究者から批判や反対があったのだ。
しかし、この薬が完成間際になったあたりからそんな声が、はたと止んだ。
やはり、地道な説得や研究の成果が認められた証拠だろう。認めてくれる同志がいることは、心強い良いものだ。
向かうところ敵なし、世界をまたにかけるジーニアスとは、ワタシのことだ!
ハッハッハ!
おっと、慢心は研究者の敵。気は引き締めなければならない。
今日もこれから予定が入っていることだしな。
今日は、長年の付き合いになる、社会学者のバーニー博士とランチの予定だ。
ううむ、この薬は人間の暮らしを大きく進展させるものだからな、社会学者の彼が気になるのも無理はない。
彼は私を自宅まで招いてくれた。
ワタシは新薬を厳重なケースにしまい、確かにカバンに入れたのを確認して、バーニー博士の自宅へと向かった。
1時間ほど車で運転したころ、人里離れた山の中にあるバーニー博士の自宅に到着した。
こんな片田舎に家を立てるとは、バーニー博士も物好きなものだ。
常に多くの人間の動きを観察し、研究している社会学者だからこそ、自宅では一人になりたい、ということらしいが。
ワタシは玄関に立ち、ちょうど目の高さにある質素なチャイムを鳴らした
しばらく待つと、バーニー博士が出てきた。彼はワタシよりも頭二つほど背が高い。
「おお、ドリトン博士か。来てくれてありがとう。ささ、入ってくれたまえ」
居間に通され、腰を落ち着けるとコーヒーを振舞ってくれた。大仕事の後のコーヒーはとても芳醇で良い香りがした。
やがてワタシとバーニー博士は談笑もそこそこに、話題は注目の新薬に移った。
「ところでドリトン博士、君の開発しているという薬のことだが……」
「おお、実にタイミングが良い! ちょうど今朝、それが完成したところだ!」
ワタシはカバンから黒い箱を取り出し、錠前を開け、薬が入ったアンプルを慎重に取り出し、バーニー博士に見せた。
「これだ、嫌なことをすべて忘れられる薬! これで人間の暮らしも大きく進歩することに違いない、バーニー博士!」
「ああ、その薬のことなのだが……」
バーニー博士の歯切れが珍しく悪い。
こんなことは、昔、バーニー博士が奥様に浮気が見つかったことをワタシに打ち明けて以来だ。要するに、言いにくいことを言おうとしているようだった。
その奥様も、3年前亡くなってしまったが。
「ドリトン博士、落ち着いて聞いてほしい。その薬をヒトに使うのには、私は反対だ」
「何を言っているのだ! バーニー博士、君がそんなおかしなことを言うとは!」
血管がブチ切れそうなほど頭に血が上るの必死に抑えて、私は努めて理性的に答えた。
「しかし、ワタシとバーニー博士は旧知の仲だ。理由くらいは聞こうじゃないか」
「ヒトは失敗から学ぶ生き物だ。」
バーニー博士は一つ一つ言葉を選びながらゆっくりと話した。
「そして、博士が完成させた薬は嫌なことをすべて忘れる薬。失敗を忘れてしまう薬なのだ。つまり、これはヒトから成長を奪い去ってしまう、そんな悪魔の薬なのだ。」
今にも血が沸騰しそうだ。こいつは何を言っているのだろうか。
こんな素晴らしい薬にケチをつけるなんてどうかしている。
ああ、そうか、こいつもほかの奴らと同じく……
「薬のヒトへの適用は反対だ。発表は、取りやめてくれ。これは、人間の社会をつぶさに観察してきた社会学者バーニーであるとともに、君の親友として言っているのだ。どうか聞いてほしい。」
ブチブチブチ!
ワタシは何かが切れる音を聞いた。それきり、目の前が真っ白になった。
気が付いた時、バーニー博士はワタシの目の前で血まみれになって突っ伏していた。
そしてワタシの右手には同じく赤色に染められた灰皿が握られていた。
ようやく、私はことの顛末を察した。
……やってしまった!
ああどうしよう!
ワタシの実績が!
これまでの努力が!
すべて、水の泡になる!!!
震えが止まらない。
こんな人里離れた家で!
ちょっとしたことで!
ワタシの研究者人生は終わってしまうのか!!!
―いや、待てよ?
ここは人里離れた土地、か。
そうだ。ここは人里離れているのだ! ちょっとやそっとでは人に気づかれまい。
そしてそのことに気づいたワタシは、証拠を残さぬように細心の注意を払いながら、バーニー博士の自宅を後にした。
しかし、不安とは後から襲ってくるもので、帰宅後しばらく経ってからだっただろう。
こびりつくような後悔や恐怖がワタシを襲いはじめたのだ。
どうしよう!
もし証拠を残してしまっていたら? 目撃者がいたとしたら?
いや、完ぺきだったとしても、取り調べをされたらどうせボロが出る!
こんな記憶、消し去ってしまいたい!
ああそうだ、一体何のために薬を作っていたのだ。この時のためじゃないか!
ああ、こんな薬、いっそ完成しなければよかったんだ!
そうすれば、ワタシの研究はだれかに引き継がれ、誰かが完成させていただろう。
そうすればワタシは死後認められる天才として、世界に名をはせていただろう!
……この薬を完成してしまったこと自体が不幸の始まりだったんだ!!
こんな薬、完成しなければよかった!
ドリトン博士は冷暗所に保管してあった完成済の薬をがぶがぶと飲みほした。
ああ、忘れる、忘れる、辛いことが、悲しいことが、すべての失敗が!
そう、寝たら忘れる。このふざけた夢もすべて覚める!
そして楽しい研究ライフが、輝かしい毎日がまたやってくるのだ……。
そうして、ドリトン博士はぐったりと深い眠りに落ちた。
数日後の朝
「20数年の歳月を経て、ついに完成したぞお!」
ドリトン新薬研究所から、朝日とともに雄たけびが響いた。
嫌なことを忘れられる薬 キリン🐘 @okurase-kopa
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