第46話:月の下のあかり
「朱里、来るなって――」
「ごめんなさい」
なにか言いかけた北条の前に、朱里はつかつかっと歩み寄った。向き合ってすぐ、音のするほど勢いよく頭を下げる。
晒された後頭部を、北条はしばらく眺めていた。が、やがて失笑めいたため息を漏らす。
「まだ八月は終わってなかったね」
呟いて、動かない朱里の横をすり抜ける。そのまま彼女の上がってきた階段へ向かい、一段目を下りたところで陽輝に顔を向けた。
「ああ、そうそう。今日来ることは、朱里に伝えたんだ。だから、きみが心配することはなにもない」
「……そうですか」
彼は返事をする前に、再び階段を下り始めた。陽輝が声を返したときには、もう顔が見えなかった。
けれど「またね」とでも言うように、伸ばされた手が振られる。
「なにか、言われてたの?」
北条の土を踏む音が遠退いていく。すると朱里は、隣にぺたんと腰を下ろした。
湯上がりの匂いは、もうない。触れる肩が気になったけれど、目を向けるほどの気力が戻ってもいない。
呆然と眺める空のどこかを、朱里もなんとなく見つめる気配がした。
「いや、ええと――うん。俺、北条さんが来ること聞いとったんよ。でもあの人のこと、腹が立って。朱里ちゃんに会わせたくなくて、黙っとった」
するすると答えてから、ごまかすべきだったかなと少し思う。だがすぐに、「いいや」と吹っ切れた。
どうでもいいや、ではなく。もう隠さなくていい、良かったと。
「そっか、ごめんね」
「朱里ちゃんが謝ることなんか、なんもないよ」
「そんなこと」
ないよ、と言いきらない。
それで良かった。でなければお互い、謝罪の応酬で夜が明けてしまう。
まだ、月が高かった。満月に近いというのに、空で独りではいない。喩え話でなく、きっと数えられる幾億の星々に囲まれ、吹き抜ける風を青白く染めていた。
「ねえハルくん、聞いてくれる?」
「なんでも」
朱里は寒くないだろうか。じっとしていては、首の辺りが冷えてしまう。
痛くなった尻と、強張ってきた肩を動かす。すると彼女は、ぴったりと寄り添ってくれた。
「あたしね、凄い広島弁だったの」
「うん。昔はそうじゃったね」
「そうそう。でも東京でお友だちと話してたら、浮いてるなって思って。直したの」
「うん」
風に混じって、朱里の息遣いが聞こえる。接した腕と、脚と、柔らかい感触も生々しい。
そんな彼女のひと欠片にさえ、陽輝はのぼせてしまう。いつか、ただのいとこに戻る。その日の想像が、どうにもつかない。
「同じになれたって安心して、仲良くなれたなって。でもたまたま、そのお友だちがお母さんと話してるのを聞いたの。電話でね」
今この場に、関係あることか。なんの話か正体を知りたかったが、問う気にならなかった。
どんなことでも朱里と話せるのが嬉しい。彼女の声を聞けるのが幸せだから。
「東北の、どこかな。可愛い言葉だなあって思った。お母さんの声もちょっと聞こえて、おんなじこと言ってるの。だからあたし、電話の終わったあとに言っちゃった。普段からそれでいいのにって」
「その人は朱里ちゃんの広島弁、知っとるん?」
「うん、知ってる。だからあたしも、しまったーって思ったよ。そうしたらその子がね、『バイリンガルってカッコいいよね』って。たぶんあたしのことも、親と話すときは方言になると思ったんだろうね」
たしかに格好いい。東京言葉と東北弁のバイリンガルがでなく。その心意気が。
「だからあたしもアパートに帰ってから、お母さんに電話したの。そしたら、うまく喋れなかった。ちゃんと広島弁なんだけど、映画で俳優さんが話してるみたいな。間違ってなくても、なんだか変なの」
それもたしかに、だ。広島出身の役者でさえ、画面の中ではおかしな広島弁を話す。おそらく台本の都合とかだろうが。
ただし朱里の身に起こったことは、体験してみなければ分からない。
「それが短大に行って二、三ヶ月かな。電話を切って、一人で居る部屋が広く感じたの。砂漠の真ん中に放り出されたくらい、なにもないの。東京って怖いんだと思った。あたしの勝手な思い込みだけどね」
「そうなんじゃ」
話の続きを勝手に予想して、そこだけはちょっと聞きたくないと思う。けれどまだ、朱里の体温の近くに居ることを選ぶ。
「そのころタクちゃんと出会ったの。話を聞いてくれて、なんだそんなことってバカにしなかった。でもね、タクちゃんは東京生まれだからその苦しさを味わえない。羨ましいって言ったの、変でしょ」
「そりゃあ変よ」
「ね」
きっと俺なら、全力で慰めた。
言いかけて、口を噤む。嘘ではない、その場に居ればどうにか朱里を笑わせようとしたはずだ。
しかし、その機会はなかったのだ。
「それでね。卒業してこっちに戻ってから、お母さんとあんまりうまくいってないの」
「え、うん」
数拍の沈黙のあと。どこにどう接続されたか、話題が変更された。手出しできないのは同じだが、今度はまだ身近な話だ。
「でもやっと最近、どうしたらいいか分かった気がする」
「へえ、良かったじゃん」
「うん。それはね、ハルくんのおかげだよ」
「俺? なんもしとらんよ」
まったく身に覚えのないことで褒められても困る。慰めの方便かと思えば、朱里は力強く「そんなことない」と否定した。
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