第47話:星降る山

「ハルくんてさ。舟有高校に行くつもり、たぶんなかったでしょ」

「えっ? ……あー、うん。なんで分かったん?」


 また唐突になにを言い出したものか。驚いたが、思い返せばそうだった。既に自分でも忘れていたけれど。


「あたしだけかもしれないけど、新しい場所って凄く気になるから。高校ならどんな先生が居るかな、同じ中学の人はどれくらい行くかな、食堂って美味しいのかな、トイレは綺麗かな。なんて」

「うん、まあ。俺も気になるよ」

「でしょ? でもハルくん、そんなこと一度も言わなかった」


 どうだったか覚えていないが、言う通りなのだろう。舟有への進学は勢いでしかなく、朱里に勉強を見てもらえることのついでだった。


「なんでだろうって思ってたけど、まさかの理由だったよ」

「あはっ、あははは」


 察せられたところで今さらだ。しかし面と向かって言われれば、笑ってごまかすしかない。

 手酷く伸されたばかりの陽輝に、どんな嫌がらせか。彼女にそんなサディスティックは、なかったはずだ。


 そう思う目の前で、朱里は笑う。いつもの優しい微笑みに、憂いを六十五パーセントほど混ぜて。


「でも、気付いたの。ハルくんて、凄い人だなあって」

「え、なんで?」

「だってそうだよ。自分じゃない誰かのために、県でも一、二を争うような学校へ受かるなんて。あたしには無理」

「いやそれ――」


 朱里を目当てのスケベ野郎と聞こえて、褒められた気がしない。百歩譲って喜んでも、やはりそれは彼女の教え方が良かった。


「俺の実力ってわけじゃないけえ」

「そんなことない」


 さっきより強く、否定された。睨みつける目は、むしろ頼りなげで可愛らしい。が、声は本気だ。


「この夏休み、ずっと。うちのこと、なんでも手伝ってくれたでしょ。どれも上手で、本当に助かるってお父さんもお母さんも言ってた」

「いやいや、上手じゃなかったし」


 畑仕事も出荷作業も、関商店の店番も。楽しかったけれど、一人前の仕事は果たせなかった。

 作物を傷付けたり、ビニールを何メートルもムダにしたり。小学生の社会科学習程度だった気がする。


「上手だったの。本当だよ」


 投げ出していた手を、朱里がつかむ。細い手と指に似合わず、きゅうっと強く締め付けられた。いや細いから、か。

 こんなことをされては、また燃え上がってしまう。反対の手を顔にこすりつける。


「う、うん。なら、良かったわ――へっ」

「へ?」


 慌てた呼吸に、鼻水が出そうになった。それを啜り、鼻がくすぐったくなった。

 へっくしょい。終いにクソと付けたいような、豪快なくしゃみ。


「大丈夫? 寒いのかな。あっ、あたしの上着、着てみる?」

「いや平気。そのために、これ持ってきたんじゃけえ」


 我ながら、なんとも締まらない。自分のバカバカしさに笑えて良かった。

 気持ちも軽く、リュックから携帯用のコンロを出して見せる。ガス缶を直に繋ぐ、最も安いタイプだ。


「へえ、こんな可愛いコンロがあるんだね」

「可愛い?」

「うん、小っちゃくて可愛い」


 どちらかというとゴツゴツした、原始的な機械。首をひねりつつ、やはり小さなヤカンに湯を沸かす。

 青白い火は灯りに不向きだが、手をかざせば十分に暖かい。


「ハルくんはね。どんなところでも、どんな条件でも、上手にやれるんだよ。自分では違うって思うかもしれないけど。少なくとも、誰も文句を言えないくらい、頑張れる人なんだよ」

「いやあ――」


 陽輝に倣って、朱里も手をかざした。たった数センチの炎が、二人とヤカンを熱してくれる。


「それで、ああそうかって。分かったの」

「なにが?」

「みんな頑張ってるんだなって」

「みんな?」


 アルミのカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉をそれぞれに。朱里が次になにを言うかは分からないが、砂糖とミルクも必要なのは知っている。


「みんなだよ。おバアちゃんとかお兄ちゃんとか、お父さんも近所の人たちも。なにを頑張ればいいか、最初から正解を知ってる人なんて居ない。だから間違えてがっかりすることもあるけど、また頑張るの」

「あー……うんうん」


 まだ朱里の中でも明確でないらしい。しかし言いたいことは、おぼろげに伝わる。

 了解の印に小さく二度頷くと、彼女も笑ってほっと息を吐いた。


「最近ね。お母さんのこと、嫌いだなって思いかけてたの。大きな声で恥ずかしいこと言うし、わざわざ人の通る所で立ち止まるし。疲れることはなるべく避けて、慣れたことだけやって済ませようとするし」

「それは病気のせいなんじゃ?」


 前半はともかく、後半はやむを得ない部分もあるだろう。だが一つどこかが気になれば、他も置いておけなくなるのも分かる。坊主憎けりゃ、というアレだ。


「うん、そう。でもあたしが嫌だって思ったのは、そんなこと関係なかったんだよ」

「うん」


 ヤカンの息遣いが急激に荒くなった。コンロの火を消すと、辺りは真っ暗になる。はっきり見えていた朱里の表情も、まったく読み取れない。


「ずっとお兄ちゃんたちには好きなことさせて、なんであたしだけって。だから短大は、逆らって東京へ行ったの。でも、そのまま就職するつもりだったのに。怖くなって帰ってきちゃった」


 そういう――。

 ようやく朱里の言いたいことが見えた。いやそれでも、やはり陽輝はなにもしていないが。

 朱里の母。満江に当て付けたつもりが、すごすごと戻ってしまったのを悔いているらしい。だから自分は、頑張っていないと。


「あたしはお母さんと同じだ、って。自分を見てるみたいで腹が立ったの。でもハルくんが教えてくれた。お母さんは、頑張ろうとしてる。頑張ることを頑張ってる」

「いや俺は」


 言われて「なるほど」と気付いたというのに、教えたなどとあり得ない。すぐさま否定しようとしたが、朱里の首が横に振られた。

 彼女だけは、いつも正しい。とは誰かの皮肉だが、たしかにその通りだ。否定を否定しようとは考えられなかった。


「俺はそんなこと思ってもなかったけど。もし、そういう風に見えたんなら」


 慣れてきた目に、天を仰いだ朱里が映る。同じ星空を、陽輝もついさっき見上げたところだ。それには触れず、カップに湯を注ぐ。

 インスタントの安っぽい強い香りが、今は極上に感じられた。


「俺も周りのみんなを見て、知ったことはあるんよ。みんな自分の思う通り、やりたいままなんかできんって。それでもどうにか、希望と近くなるように準備したりする」


 陽輝の母。燈子と、晃。関家の誰もがそうだったし、北条さえも。


「で。いざ本番ってなったら、自分のできる限りをやるしかないんよ。これだけやってダメならもうどうしょうもない、っていうくらい頑張れば結構どうにかなる」


 朱里への答えのはずが、陽輝自身に堪える。しかしもう、さほど痛くはなかった。悔し紛れに苦笑を浮かべさえすれば、勝者の言葉も真似できる。


「どうにもならんこともあるけど、それは元々無理じゃったんよ。機会がなかった、いうことじゃね」

「そっか。やっぱり凄いよ、ハルくんは」


 できあがったコーヒーを渡すと、朱里はカップを覗きこんだ。なにも見えまいと思ったが、真似てみるとそんなことはない。


「俺は凄くないって。俺の先生は朱里ちゃんなんじゃけえ」


 ぐるぐると渦を巻く、カップの中の夜空。そこには天上の星々の全てが煌めいた。朱里に教わったそのことを陽輝は伝え、銀河を飲み干すまで語り合った。

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