第44話:辛辣な拳

 朱里ちゃんは、俺を笑い者にしたかった?

 北条に向け「あんた」と呼んだのは、そういう意味になってしまう。深く考えたわけでなく、憤りに任せた言葉だ。

 けれどあらためて、違うと否定に首を振った。


「そんなん分からんよ。ていうか、あんたが無理やり言わしたんかもしれんじゃん」


 そうに決まっている。朱里は誰かを傷付けておいて、笑えるような人でない。

 北条は「困ったな」と額に手を置いた。悩ましげな表情こそ、核心を突いた証左に違いない。


「北条さん、あんたずるいわ。さっきから、自分がどう思うか言うとらんじゃろ。全部、朱里ちゃんのせいにしとるじゃろ」


 彼の罪に、指を突きつけた。だが堪えた様子はない。どこか痛みをごまかすような苦笑を浮かべ、やがて小さく頷く。


「朱里だけはいつも正しい、か。そうだね、理屈じゃないよね。きみのような気持ちに、僕も身に覚えの一つや二つはあるよ」

「ええ?」


 たった今まで、朱里は陽輝を貶めていないと擁護していたのでなかったか。それを今度は、彼女が正しくないというように。

 北条がなにを言いたいのか、さっぱり分からない。


「あるけど。それでも僕は幼いときから、自分で納得して物事を進めたいタチでね。きみと話すのにも、どうしても理屈っぽくなってしまう」

「いや、あんた。なんの話をしとるん」

「なぜ朱里が告げ口のような真似をしたか。そこから理解してもらおうとしたんだよ。でも穏便な説得に失敗した、ってことさ」


 大きくため息を吐き、北条は手すりから離れて群青のネクタイを緩めた。ぐるっと首も回し、ゴキゴキと派手に鳴らす。なんの準備体操かという風に。


「要望通り。僕はこれから、きみを殴る」

「へ、へえ」


 彼我の距離は、二歩分。ひと息で拳が届く。後退りたいのを我慢し、その場で足を踏ん張った。

 自慢でないが、殴り合いをしたことがない。応戦して無様にやられるよりは、黙って耐えたほうが男らしいだろうと。


「ああ違う違う、本当に殴ったりしないよ。僕の使う拳は、やっぱり理屈だね」

「はあ――?」


 ぷらぷらと手首を揺すり、拳を握ったり開いたり。どう見ても言行が一致していなかった。

 しかしもう、覚悟を決めた。この男から逃げることは決してしない。


「よう分からんけど、好きなようにしてえや」

「そうしよう」


 腕を組み、仁王立ちで、北条はすぐ目の前に立った。先ほど当人も言っていたが、威圧感が半端でない。


「僕がどう思っているか、だったね。それを話そう。きみは僕の彼女にちょっかいをかける、間男だ。なのになぜ、僕が咎めないと思う?」

「俺が子どもじゃけえじゃろ。朱里ちゃんをとられるとか、あり得んと思っとるけえよ」


 同じことを何度言わせる気だ。やはりバカにしたいのだなと、言い捨てる。けれど北条は、首を横に振る。


「朱里がきみを選ぶことはない。たしかに僕は、そう考えている。でもその理由は、子どもだからじゃないんだ」

「……じゃあ、なんでよ」


 陽輝は敵として成立しない。北条は、あっさりと認めた。

 そう思っていると予測するのと、現実に言われるのは違う。しかも、こうまではっきり言われるとは思っていなかった。

 たしかに腹を思いきり殴られたような感触が、胸に上がってくる。


「あれ。ケンカを売ったわりに、すぐ答えを得ようとは弱いね」

「う、うっさいわ。あんたがなにを考えとるかなんて、ヒントもなしに分かるわけないじゃろ」


 今度は息が詰まる。みくびられることに男は弱い。自分よりも強い相手に言われては、首に縄をかけられた心地がする。


「ヒントか。そうだなあ、きみ自身が条件を課しただろ? それも理由の一つだよ」

「条件? ええと、広島に帰るまでって」

「そう、それだよ」


 陽輝は高校生だ。夏休みが終われば、学校へ通う毎日となる。だからその前に、朱里の気持ちを得なければならなかった。

 条件と言っても、そうするしかなかった事情というものだ。それも理由の一つなどと、本当に答えがあるのか、怪しく思える。


「ヒントはあげたよ。分からないのかい? 制限時間は別にないけど、どうせ諦めるなら早くしてくれよ」

「い、今考えとるじゃろ」


 くそ、いい気になって煽りやがって。

 嘲笑しつつ囃したてるのなら、学校でもそういう輩は居て受け流すのに慣れている。


 だが北条は、至極真面目な顔をしていた。制限はないと言いながら、ちらちらと腕時計を眺めもする。

 足下を炙られるような焦燥感が、また吐き気を呼ぶ。


「三分経ったよ。さすがにこれ以上続けても、同じじゃないかな」


 必死で考える陽輝を、北条は黙って見ていた。入試の試験官が目の前にマンツーマン、というようで居心地が悪い。それほど溜まってもいない小便に行きたくなってくる。


「あと三十秒かな。二十――十、九、八」


 カウントダウンが始まっては、もう気が散って考えられない。いやその前に十分な猶予があったのだから、言いわけにもならないが。

 ともかく黙って、終了を待った。せめて「分からん」とは言わないために。


「ゼロ。諦めたね?」

「勝手にカウントを始めたのは、あんたでしょ」

「そうだね。なら、また考えてもいいよ。答えは出そうかな?」


 物分かりのいいようなことを言って、やはりからかっている。けれど本当に答えがあるとすれば、どうしても辿り着けそうになかった。

 諦めたと見透かされたのが悔しい。唇を噛む陽輝の肩を、ダメ押しをするように北条の手がつかむ。


「それが理由だよ。きみは自分の恋を八月に限ると決めた。だから僕は、きみを恐れる必要がないと思った」

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