第43話:大人と子ども
「僕はなにもかも聞いているよ。朱里から、電話やチャットでね」
目にした光景を、信じられない。小さく「え? え?」と繰り返すばかりの陽輝に、構わず北条は話した。
「冷たい食べ物を好きなこと。苔で滑る川底を歩くのがうまいこと。たくさんの工夫で、少ない材料でもおいしい料理を作れること。頼まれたら嫌と言えなくて、疲れも忘れて頑張れること」
やめえや。
耳に捩じ入れられるのは、貴重な体験。同じことを朱里に言われても、照れくさくて身を捩っただろう。しかし決して、嫌ではない。
それをなぜ、北条に聞かされなくてはいけないのか。戸惑いと焦りの上へ圧し掛かる、この感情の名を知らない。だが久しいと思う。
「ここのところ、きみの話題ばかりだった。優しくて、熱心で。うっかりすることもあるけど、全力で取り返そうとする頑張り屋で。朱里にとって、自慢の従弟みたいだよ」
やめえ言うとるじゃろ。
想い出を穢すなと、念じるばかりでは届かない。それくらいは陽輝も知っている。だからと気安く、主張できない。その理由にも気付いている。朱里に婚約者が居ると知ったときから。
怒りにでなく、握った拳が震える。
「だから朱里は、きみに祝ってもらいたいって。その気持ちに、僕も賛成だ。傷付けたくないっていうのは、そういう意味さ。きみの思うまま、納得してもらえるのがいちばんいい」
北条は、なにもかもを知っている。できごとだけでなく朱里の気持ちも、朱里に伝わった陽輝の想いも。
そうと気付いて、自分が今どこを向いているか分からなくなった。
憎き男を睨んでいるようで、その向こうの樹々の揺れるさまに目を奪われ、気付けば踏みつけた落ち葉の葉脈を数えている。
「だから――」
「バカにせんとってください」
もう、聞きたくなかった。褒めるところもないのに、無理やり賛辞を捻り出すような話を。
それは小さな子に「謝れて偉かったね」とか、そういう手口だ。
「だから、なんです? 納得して、すっぱり諦めて、マヌケな顔で結婚式に出ぇ言うんですか。人を好きとか嫌いとかって、そういうもんじゃないでしょうが。俺には分からんです、どうしてあんたが平気な顔しとれるんか」
「平気ってこともないけど。なんだい? 一発や二発、殴るくらいするもんだって言うのかな」
なんや、知っとるんじゃないか。
うっすら、北条には嫉妬という感情がないのかと思った。だがそういう場面とは理解しているらしい。
ならばやはり、陽輝は見くびられている。
「そうです、俺はあんたの婚約者を奪おうとしとるんです。普通は怒って、ふざけた真似すな言うでしょ」
「まあね。揉めれば、そんなことも言わなきゃいけなくなる話だよ。だからそうならないよう、分かり合いたいって言ってるつもりだ」
また、だから。
きっと北条は、きちんと話し合えば世の中に戦争なんて起こらない、などと言い出す手合いだ。
世の中に、欲しい物を手に入れるのは他人から奪うに限ると考える奴は居る。騙す必要もないのに嘘を吐く奴も居る。
それらと陽輝は少し違うが、北条の迷惑など構う気がないのは同じだ。
「バカにすな言うとるじゃろ。それはあんたが、はなから無理じゃと思っとるだけよ。あんたは大人で、俺はまだ子どもじゃけえ。取っ組み合いしたらカッコ悪いって思うとるだけじゃろ」
対等と見られていない。事実そうだが、指摘されれば気分が悪い。
「俺が一人でジタバタしとるだけで、あんたらはどうなるとも思うてない。俺だけ黙ってくれれば、丸く収めましたいうて満足できる。そういうことじゃろ」
世の中は見込みのないことだらけだ。校則で禁止されたバイクを持つことや、バイト先で可愛い彼女を作ること。将来なりたい職業も、無難なところを言わなければ笑われる。
それでも自分たちは、悩んでもがいて答えを得るのだ。誰かクラスメイトが声優になりたいと言ったときの、教師の失笑が大嫌いだ。
「あんたらは大人じゃけえ。もうそういうのは済ませました、いうて思っとるんか知らんけど。なんか大逆転とかあるかもしれんじゃろ。奇跡の確率まで、あんたらが決めんなや!」
北条に、なにを言う気配もなかった。勢いに任せた陽輝の声を、今は聞くときとでも考えているなら腹立たしい。
そうやって一つ高いところから見下ろすのが、この男をずるいと思う理由だった。
「俺が必死に考えたのを、言ったのを、
朱里も朱里だ。どうやらかなり細かなことまで、逐一の報告がされている。晒し者のようにしなくてもいいだろうに、と感じるのはおかしくあるまい。
けれど北条は、初めて表情を変えた。ほんの少し、非難の形に眉が動く。
「本気でそう思うのかい? 朱里が僕に伝えたことを、きみを貶めるためだって」
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