第41話:北条拓海という男
「もう夏休みも終わりなんだって? 楽しんだかい」
「え、ええ。まあ」
「それは良かった」
顔を見るには、ほんの少し視線を上向かせなければならない。途轍もない重力に逆らって。
笑っとる。
薄く微笑む北条が、なにを考えているのか不気味だった。お前の伝言を黙殺し、予定を狂わせた相手だろうにと。
「あ、そうだ。忘れないうちに渡しておかなきゃ」
近付く男の顔を、降り注ぐ月光がよりはっきりと映した。
ブサイク、ではない。取り立てて言うほどイケメンでもない。体操か陸上の日本代表に居ただろと言われれば、そうかなと思う。
強いて褒めるなら、小ぎれいでいい人そうに見える。嫌っている陽輝の目にさえ。
それがますます胡散臭くもあるし、どうであれ朱里の隣には相応しくない。
「え、なんです?」
握手をする距離で、北条は内ポケットからなにかを取り出した。
差し出されて、反射的に受け取ってしまう。後悔しても、彼の手はもうそこにない。
弁当の箸箱のような四角いなにか。それが包装紙に覆われ、小さなリボンまで付けられている。
なぜプレゼントを? と疑問に感じ、すぐに思い出した。進学の祝いをくれると言っていた。
「定番すぎて、嬉しくないかもしれない。万年筆だよ。でもきみがスーツを着るようになって、胸に挿しておけば話題の一つくらいになるかな。うん、その程度の物さ」
「あ、ええと。ありがとうございます?」
「いやいや」
スーツを着て云々というのは、意味が分からなかった。手にした物を突き返す方法も知らない。
誰かに良くしてもらったら、きちんとお礼を言いなさい。母や小学校で教わったのは、穏便に受け取った場合の対応だけだ。
「あの。伯父さんたちと話をするんじゃ」
「ああ、それはもう終わったよ。たまたまだけど予定を繰り上げられてね。言ったって結局、五時前くらいに着いたかな」
午後五時前と言えば、出かけてからさほども経っていない。ニアミスだった。
いやそんなことでホッとするな。陽輝は自分を叱りつける。北条は話が終わったと言った。この男と朱里とのことで、なにかしらの結論が出たということだ。
内容によって、受け取ったこの品を足下へ叩きつければいいだろうか。
「どうなったんですか」
「うーん」
笑んだまま。北条はわざとらしく、悩んだ素振りをする。顎を摘む指がいかにも。
「なんです?」
「それは本来、きみに話すことじゃないなと思ってさ。中身もタイミングも」
「まあ……」
言われて「たしかに」と。朱里への気持ちからは問うて当然と感じていたのが、反論もできない。
「あはっ、きみは真面目だなあ」
「なんです。バカにしとるんですか」
「いやごめん、そうじゃないよ。世の中、図太い人間が多いから。いい子だなって」
苛とした。脅すつもりはないが、視線がきつくなる。噴き出した北条が顔を引き締めたのも、そのおかげではあるまい。
「ほかならぬハルくんだから、教えてあげるよ。でも、条件がある。代わりに一つ、僕の質問に答えてほしい。無回答と、質問の変更は受け付けない」
「ハルくんって――なんです、質問は」
誰がハルくんじゃ。
朱里に呼ばれれば幸せを招く呼び名も、今ここでは腐臭に塗れた。
ワインの樽にグラス一杯の泥を混ぜれば、それはもう泥水の樽になるのだ。気安く真似るなと怒鳴りつけたい。
「この条件を受けるか、先に決めてほしいかな」
「それはそっちが有利すぎませんか」
「条件というのは、後出しするほうが得になるものだよ。話を聞かない選択肢が、きみにはないって分かってる場合は特に」
なるほど。自分は子どもだと見くびられているようだ。もっともらしく言っているけれど、相手が大人ならこんなことを言わないはずだ。
とは言え選択肢がないというのも、間違っていなかった。
後で伯父夫妻に聞いたのでは、間に合わない。それは勘だったが、きっとそうだと確信がある。
「分かりました。その条件で」
「いいね。決断が早いのは、いいことだよ」
「お世辞はいいんで、早く言うてください」
北条の吐き出す言葉の全てが、罠に思えた。この男は重大ななにかを陽輝にさせようと、あるいは言わせようとしている。
それでどんな不利があるのか見当にないが、乗ってやるかと警戒を強めた。
「知っていると思うけど、結婚式の予定が狂ってね。その代わり、集められる人を集めて、パーティーを開くことになった。よく言えば人前式、かな」
「そんなん、代わりになんかならんでしょ。それに普通、何ヶ月も前に予定を組むんじゃないんですか。間に合わんでしょ」
「だね。ぎりぎり遅らせて、十月末だ。行きたいのに行けないって方も多くなると思う」
間に合わない。代わりにならないが、強行する。陽輝の耳には、そう聞こえた。なぜなら北条は、ここへ来る前に決めてきたと言った。
「そんなん、朱里ちゃんが納得するわけない。伯父さんらと話したとき、朱里ちゃんは居らんかったじゃろ」
「そりゃあ、まあ。朱里は居なかったよ」
呼び捨てにすな。
北条の声、動き。細かなことまで、なにもかもが気に入らない。朱里の居ぬ間に、勝手に話を進めたことも。しかも相手の一人は、親子ゲンカの続く満江だ。
伝言しなかったのも、結局なんの問題にもならなかったようだし。こんな男にずっと怯え――気兼ねに感じていたのがバカバカしい。
「ともかく、質問には答えたよ。今度はこっちの番だ」
北条がルール無用なら、こちらも同じでいい気もした。即ちこの場から去り、朱里を連れてどこかへ逃げるのだ。
逃亡は悪でない。危機を回避するための、立派な手段だ。
でも、どこへ?
思い付くのは、広島の自宅だけ。母も朱里も不満に思わないだろうが、解決になっていない気もする。
三年待ってくれれば陽輝もなにかしらの職に就けるから、それでいいと言ってくれるだろうか。
「馬屋原陽輝くん。きみは朱里を振り向かせると約束したんだろ? 僕よりも、きみのほうがいいと思わせるって。その計画がどうなったか、きみ自身の評価が聞きたい」
すうっ、と。血の気の引く音が聞こえた気がする。
逃亡を選択しなかったのは、失策だった。問われた瞬間、そうも思った。だが、考え直す。
仮にも結婚の決まった女性を奪うと決めたのだから、こんな場面のあることは分かっていたはずだ。
「ええよ、北条さん」
大きく息を吸い、朱里と過ごした時間を思い浮かべた。劇的ではなくとも、深く向き合った記憶を。
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