第40話:暗いところ

 浴場の照明は、全体的に薄暗かった。しかし各所にフットライトが気遣われ、危うい感覚はない。

 ジェットバスと電気風呂を除き、全体の七割ほどは露天状態だ。岩で囲われた湯に浸かり、見上げるとたくさんの星がきらめいた。


「ここでも十分見えるじゃん」


 暗くしてあるのは、そのためだろう。陽輝の他に二人の客が居たが、やはりどちらも頭上を眺める。

 ただ視界の一方に、整然と窓の並んだ壁が入り込む。いかにも学校然としたそれを意識してしまうと、なんだか中庭の池を荒らしている気分になった。


 ――いや。

 違う、罪悪感は別の場所からだ。などと、たった今気付いたふりをするのも白々しい。屋内へ戻る壁を見ると、防水時計が七時半過ぎを指していた。


「夜になるって、何時ころじゃろ」


 人によっては、午後六時も夜と言う。北条が遅くなるとは仕事の都合であろうから、八時や九時になるのかもしれない。

 燈子の父。晃が帰宅するのは、毎夜十時を過ぎる。だが他人の家を訪ねるのに、そんな時間を選ぶものか。


「他人、か」


 結婚を控えた間柄。婚約者、だ。

 それはきっと、他人と呼ばない。誰と誰の話か、名が浮かぶ前に顔を湯に沈めた。


「ダメなんかな……」


 顔を洗い、火照った顔を岩に乗せる。意外とひんやりして、気持ちいい。

 北条は今まさに、関家を訪れているかも。そうでないとして、どこかから向かっている最中だ。伝言を握り潰した罪は、免れようがない。


 黙っとってくれる、わけないか。

 誰より忌避すべき相手に、なにを期待しているのか。どこかで誰かが「あんたはバカなんよ」と噴き出す。


「バカなんは北条じゃろ。朱里ちゃんを悲しますこと言うてから」


 それはそれ、陽輝の嘘とは関係がない。分かっていながら、退かない言いわけに思い込む。

 おかげで多少の気力が湧いた。風呂から上がり、また朱里の顔を見られる程度には。


「あっ、ハルくん。いいお湯だったね」


 のれんをくぐった先へ、浴衣姿の朱里が居た。千年風呂の広告が入ったうちわを手に、柔らかそうなソファでくつろいでいる。

 入浴前と同じ服を着た自分が、なんだかみすぼらしい気がした。


「浴衣、借りたんじゃ。でもそれで天文台に行けるん?」

「ううん、今だけだよ。汗がひくまで」


 下ろしていた髪が、今は後ろで括られる。その生え際に、たしかに汗が浮いていた。視線に気付いたらしい朱里は、さっとタオルを押し当てる。


「どうかな。似合わない?」

「う、ううん。凄い似合う、可愛い」

「ほんと? 良かったー」


 白地に朱の模様が鮮やかな袖を、広げて見せる。首を傾げた朱里は、明るいロビーの照明に輝いた。


「喉」

「ん?」

「喉乾いたじゃろ、なんか買ってくる」


 眩しすぎて、直視できない。返事を待たず、壁際の自動販売機へ向かう。ドキドキと胸の高鳴るのが、息苦しい。

 同時に高まる気持ちは、恋心とは違った。腹の底へ、延々と鉛を流し込まれるようだ。しかもその重みは、なぜか肩にのしかかる。高熱を出したときに似て、ぎゅっと喉の詰まった感じがした。


 先に食事を終えていて良かった。なかなか豪華な懐石だったが、これからとなったら食べられない。

 湯上がりの朱里が、涼んでくれていて良かった。お茶を一本飲む間には、きっと気分も戻るだろう。


 予測というより、使命感に近かった。その通り、およそ一時間後。陽輝は朱里より先にソファから立ち上がる。肩に小さなリュックサックを引っ掛けて。


「朱里ちゃん、そろそろ行こうや」

「うん、行こっかハルくん」


 すっきりと笑った朱里は、脱衣場へ戻る。また出てくるのに要したのは、五分程度。ニットの上へ、襟のある大人っぽい上着を重ねていた。背広のようにも見えて、いつもの可愛らしい様相とは違う。

 だが似合っているのは間違いない。


「朱里ちゃんて、ほんま可愛いわ」

「もう、恥ずかしいなあ。でもありがと」


 裏口から出て、専用の登山路へ入った。とは言え、ふわふわと柔らかい舗装がされ、散歩道と呼んだほうがいい。

 まばらに小さな灯りも置かれた、なだらかな斜面。登山路の周辺はほとんどの木を刈られているが、見渡しても街の夜景はない。


 ジグザグに進むこと、三十分強。おおよそ平らな場所に出た。

 草野球なら十二分にできる広さの真ん中へ、丸太を組んで作られた高台が見える。どうやらあれが天文台らしい。


「あっ、ごめんハルくん。電話が」


 ビクッ。と、全身が強張る。

 たしか着信音は聞こえなかった。けれど、マナーモードにしていたのだろう。朱里はスマホを取り出し、耳に当てる。


 今日の最終目的地まで、あと数十メートルなのにいったい誰が。

 決まっている、北条だ。だから自分は、身を竦ませたのだ。


 どうしよ。俺、どうしよ。

 戸惑う気持ちばかりで、それ以外は真っ白になった。縋るべきは朱里でない。そもそも縋るべきでない。しかし目が勝手に、小声で話す彼女を追い続けた。

 いつ、その声が陽輝を責めるのかと。不安で堪らなかった。


「ハルくん」

「な、なに?」


 ついにその時だ。逃げ出したかったが、足が動かない。目を細め、平静を装った声をひねり出す。


「ごめんね、もうちょっとかかりそうなの。先に櫓まで行っててもらっていい?」

「……え、あ、うん。先に? ええと、分かった」


 北条じゃないんか?

 マイクの部分を手で押さえ、朱里はすまなそうに頭を下げる。どうも陽輝の悪事は、まだ伝わっていない。


 さておき先に行けと言うのだから、従おう。山頂であっても、公園のようなもの。離れてもお互いに姿が見える。

 言いわけじみたことを考え、櫓へと歩いた。途中振り返ってみたが、彼女はもうこちらを見ていなかった。


「けっこう高いわ」


 星降ほしふる天文台と書かれた櫓の真下へ立つ。離れて見る分には子ども騙しと感じたが、背丈の五倍近くを見上げる建物だった。

 階段もがっしりして、よほど高所恐怖症でもなければ問題あるまい。今すぐ、開けた場所へ行きたくて駆け足で登る。


「ふうぅ……」


 ひと息。

 てっぺんで吐いた重いそれを、すぐに飲み込むこととなった。

 十畳ほどの反対に、人影がある。暗い色のスーツに、月明かりでさえ艶めく革靴。腰高の手すりに肘をついていた男は、おもむろにこちらを振り向く。


「やあ、初めましてだね」

「北条、さん?」


 軽く右手を上げた彼は、陽輝の呼びかけにゆっくりと頷いた。

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