第39話:今日の予定
残り物らしき、かぼちゃの煮物で朝食。畑で汗を流し、昼食は具のほうが多い冷やしうどん。
暑くなる午後。満江はシエスタに入り、長明は軽トラで会合に出かけた。
なんか俺、溶け込んだ?
まる一日の留守を、伯父夫妻はとくに言及しなかった。それはもちろん朱里に聞いたのだろうが、なにも起きなかったように、前日までの居場所が残っている。
夏休みの前には、どうやって朱里と楽しむかばかりを考えていたのに。今はこの家の一員として動けることが、恋しい従姉との距離を縮めることと思えた。
「俵温泉って、
日当たりのいい縁側で、冷えた梨を頬張る。遠くを山に囲まれ、目の前を横切る江の川まで畑と田んぼが延々と続く。
隣には同じ皿へ手を伸ばす朱里が居て、差し迫った予定も制約もない。ご丁寧にも空では、鳥が牧歌的にピーヒョロと鳴いた。
雰囲気に流されるまま爺くさく言えば、極楽とはこの場所のことだ。しかも話題は、今夜の楽しいレクリエーションについて。
果汁の飛ばないよう、手で口を押さえた朱里が、急いで咀嚼する。
「あれ、知らない? みんなで泊まりに行ったことあるよね」
「あー、なんとなくしか覚えとらん」
島根県へ海水浴に行った帰り、誰かの思い付きで立ち寄ったことがある。最初は汗を流すだけだったはずが、また運転するのが面倒になったとかではなかったか。
温泉施設と言ってもスーパー銭湯のような作りで、陽輝は母とクレーンゲームばかりやっていた。
「あたしもおバアちゃんと一緒に居て、お風呂の往復で疲れたから早く寝ちゃったの。でもお兄ちゃんたちがね、夜遅くから天文台に行ってたんだって」
「天文台って。ええと、でっかい望遠鏡とかあるとこ?」
「ううん。あそこの山が
山の名だけは聞き覚えがあった。つまり、やはりそれほど有名な場所ではない。
もちろん朱里の提案という時点で、そこがどうであれ断る選択肢は存在しないけれど。
「へえ。どんなんかイメージしきれんけど、行ってみたいねえ」
「そうよね、やってみないと分かんないもん。お兄ちゃんは、テントもなしに朝まで居たの。あたしもやってみたいなあって」
「面白そうじゃね。まあ寒かったらいけんけえ、テントも持ってくけど」
キャンプ好きの従兄たちのことだ。天体観測などついでで、野宿を楽しんだのだろう。
それなら使わなかった携帯用のガスコンロなども、出番がありそうだとほくそ笑む。
「良かった。ハルくんなら、一緒に楽しんでくれると思ったの」
「あ、当たり前じゃろ。朱里ちゃんの楽しいのが、俺も楽しいんじゃけえ」
思わず口走ったが、どうも奥歯の辺りがくすぐったい。
朱里も目を丸くした。が、すぐに「うふふっ」とまんざらでなさそうだ。それならと胸を撫で下ろす。
「あ、でも。あたしが勝手に決めちゃったけど、ハルくんには予定とかなかった? 今日はなにか都合があるとか」
「――いや、ないよ。しあさってから学校じゃし、楽しまんと」
まだ見ぬ北条の顔がちらつく。見えないことにして、残った最後の梨を口に入れた。大量の果汁が、閉めた唇から漏れ出る。
笑ってタオルを押し付けてくれた朱里を、抱きしめたいと思った。
午後四時。まだ夕方という気配はない。ピンク色のハスラーが、島根県へ向かう国道を快調に滑る。
二十分足らずをノンストップで走り、到着した千年風呂はおよそ記憶通りの風体でそこにあった。
全面に木板を貼り付けた、やけにのっぺりとした建物。
その前の駐車場は四、五十台が駐められるほど広い。だのに今どき珍しく、白い砂の浮いた未舗装の土地だ。
「ああ、元は学校なんか」
「えっ、そうなんだ」
気付いたままを口に出した。すると朱里は大きく口を開け、二階建ての全貌を見上げる。
その姿が、可愛らしくて堪らない。上下に着た濃いベージュのニットも、よく似合う。
「ほんとだ、これ学校の建物だね。ハルくん凄いなあ」
「いや、たまたま気付いただけよ」
本当に大したことでない。自分でそう感じるのを大げさに褒められると、どう返していいか分からなくなる。
居もしない蚊を追い払うふりで、背後に控える山へ視線を移した。
印象として、さほど高くない。山頂まで二百メートルもあるかどうか。
しかしたしかに、近場ではこれより高い出っ張りはなさそうだ。さらに高い場所が茜に色付き始め、朱里の希望は無事に叶いそうだと予感した。
建物に入ると、正面に受け付けらしきカウンターがあった。フロントと印字された札には、サインペンで「受付はこちら」と書き足されている。
壁に浴場のみの利用や宿泊での料金表が貼られ、高いものは五千円近い。
「朱里ちゃん、どれに――」
相談しようと思ったのに、朱里はさっさと係員の下へ行ってしまう。表に向けた指が行き場を失い、意味なく伸びをした。
「夕食付きのフリー利用でお願いします」
迷いもせず朱里が指定したのは、全ての施設を出入り自由で利用できるプランだ。表示された最高額を、彼女は自分の財布から支払おうとした。
「あっ、ええよ。俺が払うけえ」
「えっ。でも今日はあたしが誘ったんだし」
「ええんじゃって。朱里ちゃんに楽しんでもらう為に働いたって言うたじゃろ」
二人分を税込みで、一万円札では足りない。形のないものにこんな高額を支払うのは、なかなかに手の震える気分だ。
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