第38話:知らないふり

 それからすぐ、晃は戻ってきた。サービスエリアからインターチェンジまでは、およそ三十分。燈子はその時間をずっと、窓の景色を眺めるのに使った。


 県北の、街ですらない道路には、どこを向いても街灯の一つとしてない。それぞれの家庭の灯り以外では、唯一コンビニがあるだけだ。それも峠を越えればないのと同じ。ハイエースの外は、真の闇に包まれた。


 やがて県道へ入り、関商店の看板がぼんやり見えてくる。「そこです」と陽輝の案内に従って、晃は車を止めた。

 午後十時過ぎ。普段なら、門灯が消されている。しかし今夜は、灯されたままだ。


「ここがハルのおバアちゃんち?」

「お、うん」

「へえ。まあ、行ってらっしゃい」


 また急に口を聞いたと思えば、燈子は陽輝をぐいぐいと押し始める。空になった紙コップは、律儀に回収してくれたが。

 踏ん張ることもできた。だが抵抗しなかった。スライドドアが開かれ、点灯したルームランプに苦笑の晃が手を振る。


「ありがとうございました」

「気ぃ付けて」

「バイバイ」


 父親の気遣いを踏み潰すように、娘が別れの言葉を投げつける。機嫌悪げな鼻息と、勢いよく閉められたドアの音が追い打ちとなった。

 ハイエースが去り、暗黒の中へ一人立つ。端の見えない道路の向こうで、江の川の荒々しい歌声が響いた。


 ぶるっと震えて、祖母の家の玄関へ向かう。飛び石を踏む間に、第一声をどうするか考えた。ここまでの道中、いくらも時間はあったのに忘れていた。

 朱里が迎えてくれたなら、「ただいま」でいいだろうか。すると伯父や伯母の場合、なんと言おう。


 もちろん時間が足りるはずもない。照らされた扉の前で考え込むのも怪しく、すぐに呼び鈴へ手を伸ばす。

 が、鳴らす必要はなかった。カラカラッと軽快に、玄関扉が開く。そこに居たのは、陽輝の望む相手。


「お疲れさま、ハルくん。お帰りなさい」

「あ、朱里ちゃん――」


 昨日バスに乗ってからここまでが、なんだかとても遠い道のりに思えた。現実に近くはないのだが、それどころではなく。母をたずねて三千里もさまよったような気分だ。


 いや今日は、荷物を運んだだけじゃけえ。

 自分にそう言い聞かせても、胸がいっぱいで言葉が出てこない。


「うん、疲れたよね。今日はすぐお風呂に入って、寝ちゃお」


 黙ってしまった従弟を、どう受け取ったか。両手を取って、引き入れられた。框に座らされ、しゃがんだ朱里が靴を脱がしてもくれる。

 くたびれたピンクのトレーナー姿。いつになく力強く、脱衣場へ連れられる。脇の棚からバスタオルを取って渡され、ついに風呂場へ押し込まれた。


「ゆっくりね」


 だったっと小走りに、朱里は離れていった。こうまでされて出て行くのも間抜けだろう、指示通りに風呂へ入ることにした。


「うっ……ふう」


 汗臭い身体を洗い、手桶に汲んだ湯をかける。それは、やけどしそうに熱かった。けれど、水でうめる気にならない。大きく息を吸い、次は頭からかぶる。

 湯舟も浸かってしまえば、どうということはない。根拠のない、意味のない試練を己に課す。


 息を止め、時限爆弾を解除する心持ちで身体を沈めていく。

 どうにか胸まで、そこで三十を数える。するとなんだか、ちょうどいい湯加減と錯覚できるくらいにはなった。


「あ、着替え」


 重大な事態に気付いたが、まだそれどころでない。

 まあ朱里も、風呂上がりまで待ち構えてはいまい。最悪はバスタオルを腰に巻いて部屋まで行けば、陽輝のバッグがある。


 はや筋肉痛になり始めた手足が、疲労を湯に溶かしていく。今なら煮豚の気持ちが分かる。肩までどっぷり、二十分ほども浸った。

 さらに重大な事件に気付いたのは、その後のことだ。


「朱里ちゃん、これは――」


 風呂場から脱衣場へ帰還した陽輝の目に、信じられない物が映る。寝間着にしているTシャツと、ジャージのズボンはいい。その上に小さく折りたたまれたボクサーパンツが置いてあった。


「いやいつも洗濯してくれとったんじゃけえ」


 正論で自分をごまかそうと試みた。ものの、失敗に終わる。それとこれとは、また話が別だった。

 タオルの下へ挟んであったなら、まだいい。朱里が直接、いつものごとく明るく笑って手渡してくれたなら、気付かないふりができた。


 なんで朱里ちゃん、きまずい思いまでして用意してくれたんや。

 脱衣場の扉を開けても、待ち受けるのは寝静まった関家の薄闇と静寂のみ。それが従姉の心の内と思えてならなかった。


 明けて、朝。

 眠れぬ心配どころか、眠った感覚もなく目覚めた。それでいて、頭も身体もすっきりとしている。時計を見ると、ちょうど七時。


「出荷、終わってしもうたわ」


 道の駅へ出す野菜の梱包は、単純なだけに難しかった。手早く、それでいて小ぎれいにフィルムやテープを巻かねばならない。

 数日の手伝いを経て、ようやく頭数にはなれたかなというころ。今日呼ばれなかったのもまた、朱里の気遣いだろう。


「ハルくん、朝だよ!」

「わっ!」


 障子戸が真ん中から同時に分かれた。両腕を伸ばした朱里は、今日も朗らかに微笑む。

 呼びかけて起こしてくれることはあったが、こういうのは初めてだ。高鳴る心臓を深呼吸で治めながら問う。


「ど、どしたん朱里ちゃん」

「ねえハルくん。あたし、もう一つやりたいこと思い付いたの」

「え、うん。なに?」

たわら温泉。今日、夕方から一緒に行こうよ」


 楽しいことを見つけた。朱里の表情は、間違いなくそう読み取れる。

 いつにない勢いは、そのせいだと考えた。今日という日が、北条の訪れる日だとは忘れたふりをした。

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