第三章:この八月を忘れない

第37話:挑戦の結果を

 今日はそんなに汚れない。言った燈子は、たしかに全くだ。

 自分の胸を見ると、薄汚れていた。紙のおしぼりで拭ってみたが、余計に拡がったかもしれない。


 ともあれ、着替える服も時間もなかった。あるのは汗臭いタオルと手袋、財布を入れたウエストポーチだけ。

 もう一つ、走る車内を支配した沈黙もか。


 FM放送が、低い声で喋ってはいる。けれどそれは、たぶん晃にしか聞き取れていない。

 二人並んだ後席には、ボソボソとした雑音でしかなかった。


「悪い、トイレ休憩はアリか?」

「そりゃあ行ってください」


 ほんの少し首を動かし、晃が訴えた。北広島町まで近くもない道を送ってもらうのだ、したいようにして構わないのに。

 この時間、普通の道路で十分とも言った。だが晃は、迷わず高速を選んだ。路肩に見える緑色の看板が眩しい。


「トイレ行かんのなら、ジュースでも飲んで待っとってや」


 パンパンに膨れた小銭入れを放り投げ、晃はトイレに駆け込んだ。まあまあの緊急事態だったらしい。

 トイレの目の前。自動ドアの向こうが、自動販売機のコーナーだ。さらに最奥のレストランまで見通せるが、人影はほとんどなかった。


「ウチ、コーヒー」


 燈子はさっさと自動ドアを通り抜ける。声を聞いたのが、何十年ぶりに感じた。もちろん実際には、焼き肉店で以来だが。

 なぜ幼馴染は黙ってしまったのか。母の田舎へ戻ると告げただけなのに。

 なんでや。と、うっかり聞いてはいけない空気感に困っていた。


「コーヒー、好きじゃったっけ」

「別に」


 缶でなく紙コップが出てくるタイプの自販機に、燈子は立ち止まった。どちらかと言えば暑いだろうに、両手をポケットへ突っ込んで。

 コーヒーと名の付く物だけで、八種類あった。しかしすぐに決めた指が、ボタンの直前で静止する。


「早よ」


 急かされて小銭入れを開けると、一円玉と十円玉ばかりだった。探せば百円もあるのかもだが、十円を十五枚投入する。

 広告動画の流れていたモニターに、自販機内部でコーヒーが抽出される映像が出た。初めて見たときは本当に中にカメラが仕込まれているのかと感心したものだ。


「ハルは買わんの」

「えっ。あっ、買う」


 商品の提供まで、残り三十秒と表示されている。ぼんやり眺めていたが、言われて別の自販機を物色した。

 しかしなにが飲みたいか、ピンとこない。焼き肉の後だけに、喉は乾いているのだが。


 対面して並ぶ十台を順番に見比べるうち、視界の端で自動ドアが開いた。

 新たな客か、それとも晃の任務終了か。目を向けると、燈子の背中が遠ざかっていく。


「トーコ」


 呼んだが、振り向かずに行ってしまった。「なんなんや」と頭を掻いても、虚しいだけだ。小銭入れをポケットに押し込み、あとを追いかける。

 なにが面白いのか、幼馴染は花壇の囲いに腰かけ、薄暗い駐車場を見回していた。


「珍しい車でも駐まっとるんか?」

「別に」


 間に二人分の距離を置いて、陽輝も座った。燈子はちらともこちらを見ず、紙コップを両手で口もとへ運ぶ。


「このくそ暑いのに、ホット飲んどるんか」

「熱いの好きじゃし」


 ゆっくりと啜る音が、コーヒーの温度を物語る。ミリグラムで数える程度、口へ含む気配があった。

 やけどでもしたのか、渋い顔で乗ってきたハイエースを見つめる。


「なんしに行くん」

「ん?」

「いつも二、三日だったじゃろ。去年なんかは行っとらんかったし。今年はどうしたん」


 なにをしにと問われて、明確な答えはある。けれど「朱里に会うため」と言うのは気恥ずかしい。この八月限りで恋人だから、とはなおさら。


「慌てて帰ったけえ、宿題とか置いてきたんよ」

「そうなん? なら、今日じゅうに帰らんとやばいってなに」


 そこまで言ったろうか。言ったのだろう。答えに詰まり、五秒ほど考えた。


「まだ終わっとらんけえ。ちょっとでも早く帰ったほうがええじゃろ」

「ふうん」


 納得、しとらんじゃろうな。

 無理筋と自覚していた。それなのに燈子は黙っている。尻の下のムズムズするような気色悪さが残った。


「……ハルはバカなんじゃけえ、もうちょっと考えてから喋ったほうがええよ」

「なんやそれ。バカで悪かったのう」

「うん、ほんまにバカよ」


 怒ったふりで言い返す。本当はほっとしていた。黙っていられるのは、どうしていいか分からない。憎まれ口でも、ないよりはましだ。


「俺が居るけえ。トーコがどこに行っても、必ず一緒に居ってやるけえ」


 男っぽい口調で言ったのは、燈子。「なにそれ」と問うても、すぐには答えがない。

 前を見たまま、陽輝へ向けて紙コップが突き出される。咄嗟に受け取ると、まだまだたっぷりと中身が残っていた。というか、ほとんど飲んでいない。


「ほんまに覚えとらんのじゃね。あんたが毎日言いよったことよ」

「――俺、そんなん言うとったか」


 いつの毎日かは、聞かずとも分かる。燈子の母親が亡くなった直後だ。

 きっと、寂しいと言われたに違いない。慰めたはずという記憶は、間違いでなかった。


「ほんまに毎日で、一日のうちでも何回も言うけえ。いつまで言うんって、ウチ聞いたんよ」

「お、うん」

「そしたらハル、お前が死ぬまでって。俺は死なんけえ、ずっと一緒に居るって。寂しくないじゃろって」


 そこまで言われて、ほんの少し思い当たった。やはり言葉は思い出せないが、たしかにそんなことを言った。


 母親が死んだから悲しいのだ。ならば永遠に死ぬことのない自分が、燈子の死ぬまで見ていてやればいい。

 たぶんそういう思考をしたのだと思う。

 バカげている。が、今もちょっと格好いいと思ってしまう自分がもっとバカげている。


「分かったけえ、そんなにしつこく言わんでええって。言うたらもう、二度と言うてくれんかったけど」


 それは言い続けるのが正解だったのか、それとも。今もバカな陽輝には、判断がつかない。


「これ、どうするんや」


 なにを言えばいいか迷い、熱いコーヒーに話題を替えた。燈子の顔が少し覗き、疲れた風にため息を吐かれた。


「苦うて飲めんかった、あげるわ」

「なんやブラックか。お子ちゃまじゃの」

「挑戦してみただけよ。でも無理って分かったけえ諦めた。無理やり続けるんが大人じゃないじゃろ」


 挑戦して、ダメなら諦める。それなら陽輝も、飲んでみなければなるまい。

 おもむろに口を付ける。ちょうどよく冷めて、飲みごろの温度だ。香ばしい匂いも、嫌いではない。


 ごくり。多めのひと口が、口腔と喉を侵していく。張り付くような苦味が、「うえぇっ」と弱音を吐かせた。


「あははっ。ハルのほうがお子ちゃまじゃん」

「うっさい、笑うとれ」


 どれだけ面白いのか、燈子は両手で顔を覆った。くっくっと押し殺した声を零す。

 ほんの十数秒。不意に動作が止まって、こちらを向いた。


「ああ、よう笑うた」

「うるさい」

「どういう風にふられたか、また聞かせんさい。笑うたげるけえ」


 笑い過ぎた、と。燈子は目尻に手を擦りつける。

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