第30話:うっかり

「北条、拓海」

「ん?」

「……さん、ですか」

「そうだよ。そう言うきみは、陽輝くんかな」

「えっ」


 自分の口が恋敵の名を発したと気付くのに、二秒ほどかかった。敬称を強引に貼り付け、どうにか体裁を整えた。

 対して北条の声は、瞬間で陽輝の心臓を鷲掴みにした。大きく肩の震えるのと、強く胸が打つのと。同時に身体が揺さぶられ、気の遠くなる思いまでする。


「そ、そうです」

「難しい高校に合格したって聞いてるよ。おめでとう、頑張ったね」

「はあ。ある、ありがとうございます」


 いや、なんでこいつに祝われんといけんのや。

 受話器を通した音だけが、やけに大きく聞こえる。あせらず、あせらせない口調。はっきりとした滑舌。陽輝は、簡単なお礼の言葉さえ噛んでしまったのに。

 自身の不出来が、北条への苛々として積もる。


「今度、会う機会にお祝いを渡すよ。それで陽輝くんが出たってことは、関さんはお忙しいのかな? ええと、きみの伯父さんの長明さんのことだけど」

「いえそんな。あの、いや、伯父さんは――」


 お祝いなんか。

 貰うつもり、筋合いがない。おおよそ、そういう感情を抱いた。

 けれど北条は返事を待たず、本来の用件を続けて話した。言い返すタイミングを逸したが、この電話一つでケンカ腰になるのもおとなげないと思い直す。


 さておき。もう数分は経っているはずだが、誰も通りすがらない。念のためにぐるりと見回し、つま先立ちで首を伸ばしてみても姿が見えない。


「忙しいってことはないと思いますが、呼んできましょうか」

「ううん、そうだなあ。いや、いいよ。伝言を頼めるかい?」

「え、ええ」


 思考する雰囲気が言葉に纏わされた。だがほんの一瞬で、本当になにか考えたのか? と疑いたくなる。

 それで判断を誤ってもこちらのせいでなく、まあいいやと陽輝が考えるまでの時間も似たようなものだったが。


「まあまあ。初めて話すんだから、お互い緊張するけど。楽に行こうよ」

「ええ?」

「電話が苦手かもと思ってね」

「そんなことはないです」


 至極当たり前のことだけれど、電話の向こうの北条は見えない。だというのに、不思議なことに、フッと小さく笑う顔が浮かんだ。厭味にではなく、気のいいお兄さんという風に。


「今月、八月二十三日。来週の月曜だね。たぶん夜になるけど、お邪魔させていただこうと思う。伝えてもらえるかい?」

「分かりました、二十三日ですね」

「うん、そう。三十分くらいのことだし、お構いなく。とも言ってもらえると助かる」


 電話のすぐ傍へ置いてあるメモ帳に、その通りを書いた。細い麻紐で繋がった鉛筆には、せきあかりと平仮名で書かれている。


「伝えておきます」

「夏休みも終わりころだけど、陽輝くんも居るかな?」

「まだ決めてません」

「そうか、分かった。じゃあ頼むよ」


 これからいくらでも世間話の出てきそうな気安い雰囲気。それが唐突に沈黙へと変わった。


 用事が終わったんなら、早く切れや。

 と思ったが、よく考えると最後の返事をしていない。


「あ、えっと」

「うん?」

「その……」

「うん、なんだい? 僕はなにも急がないから、ゆっくりでいい」


 請け負ったと伝えるだけで良かったはず。だのにそれではいけないように思えて、電話を切れなくなった。

 電話と言えば、そろそろ朱里がやって来るかもしれない。それまでに、この通話を終わらせなければ。

 そんな必要はないのに、なぜかそう考えた。


「なんの用事でとか、言わなくても?」

「ああ。そうだね、うっかりしてたよ。と言っても、関のご両親には察してもらえるはずだけど」

「結婚式のことで? あっ……」


 しもうた。

 この男の声を聞いてすぐ。北条と名乗られて直ちに、陽輝自身が察していた。

 朱里の悲しんでいた、結婚式の中止について。電話で言っておしまい、とはならない大ごとだと。


「ああ、そうだよ」


 また笑った。造作の分からない、シルエットの顔が。自嘲して頷いた。


「恥ずかしい話だけど、できないってことしかまだ決まってない。どうするのがいいか、ご相談に伺うってわけさ。だから結婚式のことで、とだけ伝えてくれればいい」

「結婚式のことでとだけ、ですね」


 メモを読み返すと、北条の言った伝言部分がほとんどそのまま書かれていた。

 要点だけを書けばいいのに、バカじゃないかと自分を罵る。


「頼むよ。さすが難関に合格しただけあって、真面目だね」

「えっ?」

「じゃあまた」


 真面目とか言う要素、あったか?

 問おうにも、通話は切れている。発音のいいトゥーットゥーッという音を電話機に封じ、メモ帳の一枚目を破り取った。


「あれ、ハルくん。まだ居たんだ」


 それからすぐなのかもしれないし、数分も呆けていたかもしれない。メモ書きを二、三度読み返したところで朱里が玄関の戸をくぐった。


「う、うん」

「もしかして、さっき鳴ってた電話。ハルくんが取ってくれたの?」

「うん」

「そっかー、ありがとう。誰からだった?」


 朱里の両親にと伝言を預かった。だが彼女に伝えても、問題なく果たしたことになるだろう。

 北条拓海からと、メモを渡せばいい。それだけで、もやもやと消しようのない気持ちを朱里に渡してしまえる。


「母さんじゃった」

「昭子叔母さん? 珍しいね、こっちにかけるなんて」


 母の名を聞いて微笑んだ従姉の視線は、黒電話へ向いた。それはそうだ、見たことはないが、長明や満江もスマホくらい持っているに違いない。


「うん。俺にじゃったけえ」

「あー、そっか。なにかあった?」

「ううん。台風は大丈夫かっていうのと、いつ帰るかって」

「うんうん、叔母さん優しいね」


 優しいのは、朱里ちゃんよ。

 疑う様子の欠片もなく、もっともだと二回彼女は頷いた。

 たった一歩半の目の前で、陽輝は手の中の紙きれをうっかり握り潰す。小さく、くしゃくしゃに。

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