第29話:試される日
台風一家、と言えるほどの激しさは関家にない。いつものんびり、したいときに仕事をする、というくらいが陽輝の印象だった。
台風一過の朝。午前七時よりも前に目覚めたのは、この夏で初めてだ。山間のキャンプ地で感じるような、ひんやり落ち着いた空気が家を取り囲む。
ただし遠くで、誰かが喋り続けていた。耳慣れない声質の男性が、ひっきりなしに。
頼りに進むと、居間に行き着いた。障子戸を開ければ予想通り、祖母がテレビを見ていた。
ちょうど画面が切り替わり、天気予報になった。朱里と同年代の女性が、はきはき溌剌と好天を伝える。
祖母の隣で、天気図とやらを見てみよう。そう思った背中で、軽トラのエンジン音が響く。
振り返ると既に雨戸は開け放たれ、県道を行く長明が見えた。
「ねえバアちゃん。伯父さん、朝からどこ行くん?」
「そりゃあ朝市よね」
付近で市場が立つなど、聞いたことがない。もちろん、よそ者の陽輝が知らないだけかもしれないけれど。
「朝市? そんなんあったっけ」
「あれよね。ほれ、あのぅ、わっさるよ」
「ああ、道の駅に出しよるんじゃ」
「ほうよほうよ。農協に出すより、
農協に出すより、とても良い。たぶん、儲かるという意味だ。すると軽トラには、野菜が載っていたことになる。
「そんなのしよったん、知らんかったわ。伯父さんが一人でやるん?」
「いんにゃ、嫁二人の仕事よ。多いぃときにゃ、朱里ちゃんも手伝うてくれるんよ」
「ああ、そうなんじゃ」
次光の妻と、長明の妻の満江と。朝が早いと聞いたのは、方便でなかったらしい。朱里が手伝ってくれる、という言い方からして祖母も作業しているのだろう。
「バアちゃん、それ俺にもできる?」
「そりゃあ簡単なことよ。ビニールぅ巻いて、テープで留めるだけじゃけえ」
「じゃあ明日から、俺にもやらしてや」
「手伝うてくれるん? 助かるわ」
画面がコマーシャルになり、振り向いた祖母がにんまりと笑ってくれた。
朝食のあと、強風で飛んできた枝葉やゴミを畑から除去する作業を手伝った。指示するのは次光で、じきに長明も戻ってきた。
なにも食べずに農作業は、身体に悪い。そう思って聞くと、伯父は「いひっ」と噴き出して答える。
「実はのう。昨日の売れ残りのサンドウィッチやら、なんぼでもくれるんよ。嫁さんと朱里にゃ、内緒で?」
関家の食卓に並ぶのは、きっちりとした家庭料理だ。ジャンクフードや、それに準じた軽食が魅力的なのは分かる。
正直に言ったところで朱里は文句も言うまいが、言わないでおきたい心持ちもなんとなく。
「やぁれ。風神さん、よう仕事しんさったのう」
「ようする言うて褒めりゃあ、また増えるじゃろうが兄貴」
「ほうよの」
やがて二人の伯父が、オヤジ臭い冗談を言い合った。要するに、あらかたの作業が終わったと言いたいらしい。
腹時計に依れば、およそ十時過ぎ。朱里と四人、だだっ広い畑をよくもと思う。学校で行う大掃除など、数百人で半日かけてもなにも変わった気がしない。
「朱里ちゃんと結婚したら、俺がこの畑をやらんといけんわ」
「ん。ハルくん、なにか言った?」
「いやなにも」
我ながら、さすがに気が早いと思う。けれど畑の真ん中に立っていると、そう感じて仕方がなかった。
原因もきっと分かる。
一つの危機を。つまり台風を共にやり過ごしたことで、仲間の内に深く溶け込めた気分になった。
もちろん傍から見れば、ただの一回でと言われるだろう。だが、これを何度も繰り返すのだ。
誰でも最初は初心者じゃろ。
ただの一回がそう考える根拠になり、次を迎える気構えを生んだ。
今まではただ、朱里の傍に居たいと考えていただけ。これからは朱里と共に歩むことを考えなければと。
「ねえハルくん。お散歩に行こ」
「あ、うん。ええね」
屋外の蛇口で顔や手を洗っていると、先を譲ってくれた朱里からデートの誘いがあった。
散歩と言っても、歩ける範囲にはなにもない。カフェはおろか、公園の一つさえだ。
だから車を出してくれるに違いない。服を着替え、駐車場に近い勝手で待っていると、白いワンピースの朱里が陽輝を呼んだ。
「ハルくん、行かないの?」
「え、そっちなん?」
「そっちってどっち?」
彼女が居るのは玄関だ。既にピンク色のスニーカーを履いている。
どうやら本当に散歩のようだ。勘違いを悟られないためには、なんと言いわけするか。十数歩では思い付かなかった。
「遠出すると思った?」
「いや?」
川土手に当たる県道を、並んで歩く。歩道はないが、車の通行もほとんどない。あったところで、何百メートル先から視認できる。
車には狭いアスファルトの真ん中を、二人で占領した。
「へえ、そう」
「ごめん。車で出かけるんかと思った」
「うん、いいよ。どこがいい?」
わざとらしく作った疑いの視線に、すぐさま降参した。恋する相手に嘘を吐くなど話には聞くが、自分には無理だと痛感する。
「ううん。朱里ちゃんが行きたい思ったところへ行ってみたい」
「ええ? ハルくん。そんな上手い口、どこで覚えたの」
「えっ。なにそれ、俺は思ったこと言っただけよ」
からかわれとる。
恥ずかしくて、彼女のほうを向けなかった。作物で遮られた畑ばかりを眺め、七歩。
なんだか朱里が遠く離れた気がした。
「あれ?」
「あっ、ごめんね」
気のせいばかりではなかった。照れ笑いの従姉は、とととっと七歩を駆け寄る。サンダルのせいか、陽輝の歩みより遅いけれど。
「今日はね、ハルくんの記憶力テスト」
「記憶力?」
「そう。ここから神社までは、どうやって行くでしょうか」
「そんなんでいいん?」
テストという、あまり歓迎しない単語に警戒してしまった。しかし中身は、いとも簡単だ。
秋に神楽の行われる神社は、畑さえなければ見通せる場所にある。県道にも国道にも接してなく、あぜ道だけを行かねばならないのが、難しいと言えば難しい。
「俺ね。神楽に行くの、結構好きなんよ」
「そうなんだ。あたし、お話が全然分からないよ」
「あはは、俺も分からんよ。焚き火でお餅を焼いてくれるじゃろ? あれがなんだか、凄い美味しいんよ」
県北の山中。特に夜は、広島市の冬より寒い。零れ落ちそうな星空の下、キャンプファイアのような火が焚かれる。
そこで、とんど祭りのごとく巨大な餅を焼く慣わしがあった。きっと神事でもなんでもなく、神楽に飽きた子どもに振る舞うためのものだ。
「ああー、お餅ね。そういえばあたしも好きだったな。焦げちゃったのが、逆に美味しいよね」
「そうそう。黒くなった下のとこ」
話しながら歩いて、十五分ほど。神社のある丘――もとへ、ちょっとした瘤の元へ辿り着く。
決して実のなることのない、けれど枯れない不思議な枇杷の木を横目に、でこぼこと荒れた参道を登る。
「あー、気持ちいいね」
「昼寝にちょうどええね」
高い檜に囲まれた境内は、ひっそりと涼やかに二人を迎えた。常設された神楽の舞台が、思っていたよりも小さく見える。
「テストは合格なん?」
「まだまだ。今のは第一問だよ」
「ええ、何問あるん?」
「秘密だよ」
自身の唇に人さし指を当て、言わないと示す朱里が天使かと思う。いや場所に合わせて言うなら、天女だろうか。
そんな彼女になら、どんな無法をされても許せてしまう。むろん、そんなことをしないと信じてもいるが。
「ええと。次はね、ため池の水門にしようかな」
「えっ。逆方向じゃん」
「ギブアップする?」
なんのために神社へやってきたのか。座って涼むでもなく、手を合わせただけで再びの移動が指示される。
けれどなんとなく、意図の分かった気もする。神社もため池も、朱里と陽輝が従兄たちに連れられて遊んだ場所だ。
大元の目的がなんであれ、思い出の場所巡りならば楽しいばかりだ。断る理由は、なにひとつ存在しない。
「せんよ。行くに決まっとるじゃん」
そして思った通り。また二十分をかけてため池に到着した次は、レンゲ通りの名が出る。朱里が好きだからと、彼女の兄が見つけてきた場所だ。
また次も、そのまた次も。二人が連れられた場所へ赴く。そうするうちに気付いたのは、意外と忘れかけた記憶のあること。
行く道は覚えていても、どう遊んだかは思いだせなかった。しかしその場へ着いてみれば、昨日とは言わずとも去年のことくらいには目に浮かぶ。
「ここまで全問正解じゃね」
「凄い。凄いよハルくん」
「次はどこ行く?」
飛び跳ねて拍手をする朱里に、陽輝の気分も最高潮と言えた。正解を出すことが、彼女に近付くことと思えた。
「ううん、帰ろ」
「ん?」
「全問正解だよ。もう降参」
「あ、ああ。うん、かなり歩いたし」
「ごめんね、疲れた?」
「全然」
散歩と言うより、ハードめのウォーキングだったかもしれない。まあ、上り下りはほとんどなかったけれど。
最後の場所から関家までは、気付けば五分もかからない距離だった。庭へ入ってすぐ、熱くなった顔を蛇口の水で冷やす。
「あ、ごめんハルくん。お仕事の電話」
「うん。先に入っとくね」
斜めにかけていたポーチから、朱里はスマホを取り出した。彼女と直接に繋がるアイテムが、やはり羨ましい。
それはともかく仕事の邪魔をしてはいけないと、まだ水を滴らせつつ玄関へ入る。
と、電話が鳴った。玄関脇の、黒電話だ。リリリと一周鳴るのを待っても、誰かが来る気配はない。
仕方なく受話器を取り、もしもしと問いかける。
「もしもし、北条です。関さんのお電話で間違いなかったでしょうか」
凛々しげな、大人の男の声がした。
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