第28話:嵐の到来

 母が広島へ帰ったあと、しばらくすると風が強くなった。朱里が「晩ごはん作るの手伝って」と言うころには、叩きつけるような雨も降り始める。


「伯父さん、どこ行くん。台風みたいな天気じゃのに」

「みたいじゃのうて、台風が来とるんよ。用水の具合いを見とかんと、明日の朝にゃあ畑が丸坊主いうことになるけえ」


 傘ではなく分厚い雨合羽を着込み、手には防水の懐中電灯。昨日の、いや今朝までの酔っ払いはどこへ行ってしまったのか。凛々しく顔を引き締めた長明は、玄関の戸を開けて出て行った。

 日没にはまだもう少しあるはずだが、外はすっかり夜の気配だ。


「畑もじゃけど、伯父さんが心配なね」

「うん。でも放っとくわけにもいかないから、気を付けてくれればいいんだけど」


 晴れていれば台所の窓から、長明の持つ灯りが見えたのかもしれない。けれども実際に見えるのは、打ちつけた雨粒をまた雨粒が押し潰し、クレヨンで塗り分けたようなまだら模様だけだ。


 ときどき朱里の視線が窓の外へ向くものの、きんぴらと甘鯛のあら汁が並行して出来上がっていく。タコの炊き込みも合わせれば、三つが同時に。


 調理具や器が流しへ置かれるたび、洗うのが陽輝の役目だ。

 もうそろそろ完成したおかずを入れる器を用意しなければならない。蛇口を締めたところで、カターンと耳慣れない音が聞こえた。


「あっ、お母さんが雨戸を閉めてる。ハルくん悪いけど、手伝ってあげて」

「分かった、すぐ戻るけえ」


 縁側へ行ってみると、たしかに満江が雨戸を動かしていた。正直なところ、伯母はいつもだらだらとするのが役目と感じていたので、意外に感じる。


 掃き出し窓は、都合八枚。同じ数の雨戸が戸袋に収まっていて、引き出すのに苦労している様子だった。


「伯母さん、俺がやるけえ」

「あらハルくん、悪いねえ。普段使わんけえ、どうもいけんわ」


 伯母の触れていた雨戸に手を伸ばすと、さっと場所が空けられる。そのほうがやりやすいけれども、どこか引っかかる気がした。

 しかし気にせず、力を篭める。砂でも噛んでいるのか、動き出しがガタガタと重い。だが半分ほども引き出せば、あとはすうっと端まで走ってくれた。


 カターン、カターン。と、引き出した戸を満江が定位置へ走らせる。その合間に、商店のトタンを叩く雨音が、腹を立てた誰かの八つ当たりかというほどやかましい。

 雨戸を全て閉じてしまえば、それも気にならなくなったが。


「……伯父さん遅いね」


 食卓におかずが勢揃いし、炊飯ジャーにも炊きたてご飯が待機している。伏せた茶碗と揃えられた箸が、長明の不在を現実より長く思わせた。


 誰が見ているでもなく点けられていたテレビから、国民的家族アニメのエンディングが流れ始めた。おもむろにリモコンを取った祖母が、天気予報にチャンネルを替える。


「朝方まで続くらしいわ」

「うん。今朝の予報で言ってた通りだね」


 予報士の言葉を、祖母は繰り返した。朱里もテレビの画面に目を向け、同意する。

 陽輝は台風が近付いているのも知らなかった。天気予報を見るのは、修学旅行前や海水浴へ出かける前日くらいにしか記憶がない。


 今度から、ちゃんと見よう。

 なんだかそうしなくてはいけない気がして、胸に誓った。が、またそれが不吉を呼んでいるようで、しなければ良かったと悔やむ。

 朱里の視線が壁の時計と玄関の方向とを、忙しく往復し続けた。


「朱里ちゃん」

「ん、なあにハルくん」

「ええっと――」


 思わず呼びかけたものの、なにを言う気だと自分を責めた。

 俺が居るよ、などと言ったところで気休めにもならない。どころか、意味が分からない。

 祖母と伯母と従姉が心配しているのは、この家を支える人物だ。


「あ。お腹空いたよね、ハルくん食べていいんだよ」

「ほうよ。陽輝は先ぃ食べんさい」


 言葉に詰まったせいで、妙な誤解を与えたらしい。しかも空腹に耐えかねているという、幼稚な要望として。

 否定したいが、ではなにか? と問われるだろう。

 返答に窮し、数拍の不自然な間に堪えきれなくなったとき。玄関の戸の開く音がした。


「やぁれ、遅うなった。うちのは大丈夫じゃったが、かみんとこのが古うなっとったけえ」


 上手にあるどこかの家の用水を手伝っていたと伯父は叫んだ。

 そんな大声で言わなくともと思うが、弾かれたように朱里と満江が席を立った。ゆっくりとでも、祖母まで。


 そうなると陽輝も座ってはいられない。濡れた身体を左右から拭いてもらう伯父を、遠巻きに眺める。

 偉そうにふんぞり返るわけではない。濡れ鼠になって家へ上がれないから、しっかりと拭かなければならなかった。それを伯母と従姉が、「お疲れさま」と労っているだけだ。


「伯父さん、大変じゃったね」

「ほうよ陽輝、分かってくれるかあ?」


 言葉が勝手に、口から滑り出た。それでようやく、長明は陽輝の存在に気付いたように見える。

 だが、不満には思わない。それから伯父はカラスの行水を終え、あら汁の温めなおされた食卓に着く。

 陽輝は朱里に頼み、伯父の好む焼酎の作り方を教わった。

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