第31話:宿題が終わらない

「そ、そろそろ宿題を終わらせんといけんわ」

「ええ? あと十日くらい残ってるでしょ。なのに終わっちゃうって、凄いねえ」

「全然凄くないよ」


 首を横に振り、早足で歩く。丸まった物体をズボンのポケットに押し込み、自分の部屋へと。

 障子と窓を開け放てば、エアコン要らずの家だ。しかしどうも落ち着かず、障子戸は閉めきった。


 畳にあぐらをかき、持参したカバンを開く。と容量の三分の一を占める、宿題という名の天険に震えがくる。実を言えば、まだ半分しか終わっていなかった。

 朱里の言う通り、今日も数えれば夏休みの残りは十日。最初の授業で提出するものをロスタイムとして勘定すると、まだまだ問題なく完了できる。


 終わった半分というのが、五十ページ近くある数学の冊子なのが幸いだ。朱里が得意で、教わる口実にちょうど良かった。

 逆に言うと、それ以外は手つかず。漢字の書き取りと古文のテキストなど、ただただ反復の拷問に思えた。


「物理は、宇宙人が存在する可能性についての論文? なんじゃそりゃ」


 税制に関する書物を読み、税金に対する思いを書け。という公民の課題は、国語の読書感想文と合わせて一つではダメだろうか。


「ダメに決まっとるよな」


 全然ダメじゃん、俺……。

 ため息の先に、三十枚のB4プリントが束ねられた英語も待ち構えている。

 北条の伝言を握り潰した罪悪感を、宿題という義務感で紛らわせようとした。結果、より重苦しさが増しただけだった。


「なにがダメなの?」


 縁側のほうから、朱里の声がした。障子に落ちた彼女の影、両手でトレイを持っている。


「えっ、いや。なんもダメじゃないよ」


 あたふたとカバンを閉じ、障子戸へ走る。開いた向こうに、お好みソースの芳ばしい匂いが漂った。


「焼きそば作ったんだけど、食べる?」

「うわあ、食べる食べる」


 目玉焼きまでトッピングしてくれる彼女を目の前にすれば、どんなこともどうでもいいと思える。そのことで自己嫌悪をしていても、だ。


「なにか困りごと?」


 焼きそばと麦茶を受け取ると、朱里はトレイを胸に抱えた。

 困っているのは、微笑みに憂いを混ぜた従姉をどうするかだ。北条より陽輝のほうがいいと思わせる。などと啖呵を切ったのに、なにもできていない。

 敵が自滅しそうなのは良いが、成り行きに任せるのがいい男とは思えなかった。


「いや国語と社会の宿題が、両方とも感想文じゃけえ。ひとつ書いたら二つ分に数えてくれんよね、思ったんよ」

「あはは、それなら楽でいいね。題材にできるか分かんないけど、あたしの部屋にも少しは本があるから」

「ありがと。あとで見せて」


 快く「うん」と首を跳ねさせ、朱里は台所へ戻っていった。

 早速テーブルで焼きそばを頬張ると、かつお節の香りが名案を浮かばせた。


 同じ本を面白いと思うのって、親しい条件じゃろ。

 どこかで見たか、誰かに聞いたか。人間関係の記事で、そういうものがあったはず。


 難点は、陽輝に読書の習慣がないことだけだ。それでも読んでみれば、きっと楽しめる本もある。朱里のためなのだから、必ずそう感じられる。

 無謀を希望に変える無敵のキーワードを胸に、焼きそばを五口で平らげた。




 朱里のお薦めという本を借りて、はや四日目。感想文を書くには本を読まねばならないというのに、読了が遠かった。

 とは言え甘めに見積もって、七割くらいは進んでいる。おおかたのオチも見えたように思う。


 平凡な会社員が、関西弁の神さまと過ごす日常を描いた物語だ。

 神さまは、靴磨きとかなんでもないことで自分を変えられると言う。ただし言いつけに背けば、二度と夢を持つこともないだらけた一生を送ることになる。


 毎日一つずつ。ちょっと難易度の高いこともありながら、ミッションをこなしていく。すると主人公は、その一つごとにちょっとした気付きを得る。

 陽輝の感覚としては、そこのところに反感がある。


 そんなんで気付くんなら、神さまなんか頼らんでも自分で気付くじゃろ。

 おそらくはこの先、すっきり晴れ晴れとした主人公が順風満帆な人生を送るのだ。もうそういうことにして、感想文を書こうかとも思った。


 けれど、書けない。原因は、遅々とした読書速度とも同じだ。

 ある日突然に発生した、自身を大きく変える存在。そのために努力を続け、最後に全てが報われる。

 そんな主人公に、自分を重ねていた。


 ラストを想像で書いてしまえば、陽輝自身に都合のいいことばかり妄想しそうだ。だからと読み進めて、もしも破滅したらどうするのか。

 そこまででなくとも、痛い目を見て教訓を得たことがハッピーエンドというのもよくある話だ。

 こと朱里に関して、痛い目を見たくない。


「あ、ハルくん。また読んでくれてるの?」

「う、うん。面白いけえ、何回も読んでしまうわ」

「そんなに? 良かったあ」


 他の宿題も終わったことになっている。

 手取り足取り、野菜の包装を朱里に教わった。それから散歩にも出かけ、共に店番を代わり、畑仕事を並んでする。

 代わり映えのしない、絶対に他ではできない時間を、毎日。大好きな彼女と行う。


 夏休みが終わるまで、ただそうしていればいいことになっていた。

 北条がやって来るのは、もう明後日のことだ。逃げ出したい気持ちに知らぬふりをして、なにも知らない朱里を騙しているような罪悪感に腹の底を灼かれ続ける。


 憂鬱な耳に黒電話の音が響き、応じた朱里に「ハルくんに電話だよ」と言われたのは昼食後のことだった。


「もしもし?」

「ハル。あんた明日のこと、忘れとらんよね」


 剣呑な、幼馴染の声。カレンダーを見れば、明日とは八月二十二日。

 なんのことやらと、沈黙して数拍。陽輝は背すじを寒くした。

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