第25話:背中にあるもの

「あっ」


 と。

 短く上がった声は、珍しい山草を見つけたようであったし、西の空へそびえ立つ巨大な雲に驚いたと言われても納得した。


 どうであれ間違いないのは、声の主が祖母であること。普段のなにげない発声の一つと思い、陽輝は聞き流したこと。


 最後まで墓に手を合わせていたのは、朱里だった。母の昭子は誰かが忘れ物をしていないか、ゴミを落としていないか見回っていた。

 陽輝は母を見習うそぶりで、朱里が動くまで待っていた。


「おバアちゃん?」


 二十歩ほど先から下る階段に、朱里は顔を向けた。陽輝もその様子に気付いたが、彼女がなにを心配したかは分からない。母もきっと同じだったろう。


 返事がなかったのも、まだ懸念するほどの事態でない。祖母はわざわざ大声を張り上げる性格でないし、朱里の声が聞こえなかった可能性が高かった。


「おバアちゃん、大丈夫?」


 それでも朱里は小走りで、祖母の居るだろう方向へ急ぐ。陽輝も走ったが、着いて行ったというだけだ。


「きゃあっ、おバアちゃん!」


 階段を見下ろした途端、朱里の叫びが上がった。彼女が駆け下り始めて、やっと陽輝の目にも事実が映る。

 緩やかなスロープ状の部分も合わせ、十五段の途中に祖母が倒れていた。


 うつ伏せだったようだが、既に起き上がろうとしている。駆け寄った朱里と、追い付いた陽輝とで両肩を支えた。


「母さん!」


 そこで昭子も姿を見せた。二、三段を飛ばして、正面に回り込む。


「ああ、平気よね。足ぃ絡ましただけじゃけえ」

「うん。擦りむいてるけど、それ以上はないみたい」


 いかにも大事でないと示すように、祖母は汚れた手をはたく。足元へしゃがみ込んだ朱里が、自分のポーチから消毒液を取り出した。


「母さん、ごめん。兄さんらと一緒に下りよる思うたけえ」

「ああ、ああ。あんにらは先さき行って、つまりゃあせんよ。言うてウチも、ボケぇっとしとりゃあ世話ぁなあが」


 長明と次光の両夫妻は、一歩進んでは休むような祖母を置いて、先に下りてしまったらしい。

 しかし転んでしまったのは関係なく、自分がぼんやりしていたからと祖母は笑い飛ばした。


「でも」

「いんにゃ。ウチが邪魔になるけえ言うて、先ぃ行けぇ言うたの。じゃけえ誰も悪うない」


 先に車で待っているはずの方角へ、昭子は非難の目を向けた。だがそれも祖母は、頑なに責めるなと言う。


「うん、分かった。でもおバアちゃん、心配だからあたしと一緒に下りて?」

「ええ? 朱里ちゃんにそこまで言われちゃあ、嫌とは言われんねえ」


 朱里の言い分には、素直に従ってくれる。片腕を預け、いかにも怪我人の付き添いという格好で。


「あっう……」


 けれども一歩しか進めない。見た目には擦りむいただけの足が、痛んで体重をかけられないようだ。


「おバアちゃん、ごめん。大丈夫?」

「大丈夫よね。ちぃっと痛かったけんど、もう慣れたけえ」


 それほどの痛みに気付かず、歩かせたことを朱里は謝る。それもまた祖母は庇うものの、さすがに慣れたとは無理があった。


「すぐそこだけど、行けるかな――」


 階段の残りは七段で、その先に僅かな上り勾配が駐車スペースまで続く。行く先と祖母の足とを見比べ、朱里は身を屈ませた。

 彼女の言う行けるかなとは、おぶって行けるかの不安らしい。


「陽輝」

「う、うん。俺がおんぶする」


 これは本当に、自分なら行けると陽輝は考えていた。急の出来事に声を発するのを忘れていただけで。

 母が声をかけてくれて、それも思い出せた。朱里と祖母が、不安げな顔を並べる。


「大丈夫よね。俺も男じゃし、高校生になったんじゃけえ」

「じゃあ、甘えるけえね」


 関家に集まる者のうち、陽輝はずっと最年少の地位に居る。親にとって子どもはいつまでも子どもと言うが、親戚の中でもやはり同じ意識はある。


 そういう空気を常に感じる陽輝に、議論をするつもりはない。祖母に背を向けて屈み、乗りかかった体重も軽々と立ち上がる。


「ああ、こりゃあ楽ちんじゃわ。陽輝も大きうなったんじゃねえ。ウチも耄碌するはずよ」

「ええ? こんなん大したことないけえ」


 通学に使うスポーツバッグへ、あれこれ詰め込んだときのほうがよほど重いと感じた。

 翔ぶように。行こうと思えば行けたが、祖母を乗せているのでもちろんゆっくりと。隣にいつでも介助の手を差し出せるようにした朱里と、歩調を合わせて進む。


 山の斜面を少し回って、勾配の終わりに車が二台見えた。一台はフレア。もう一台は長明のエスティマ。

 伯父や伯母の姿はなかったが、背負われた祖母を見て慌てた風に全員が車を降りた。


「母さん、なんかあったんか!」

「お義母さん!」


 男二人と女二人の声は、それぞれ似たようなものだった。取り囲まれた陽輝としては、自分がなにかしでかした気分にさせられる。


「お父さん、お母さん。今ハルくんが運んでくれてるの。とりあえず、座席まで通してあげて」


 そう言った朱里の声に、感情はなかった。なにかあって本来だろうに、なにも感じられなかった。

 冷えた言葉を浴びせられた長明夫妻と、同じ立場の次光夫妻は神妙に道を譲る。

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