第22話:予想外

 翌朝。

 左の肩をテントに触れさせ、右の肩へ朱里の吐息を受けて目覚めた。昨夜、二人並んだときには眠れるはずがないと思ったのに。

 先に彼女が寝息を立て始め、化粧水かなにかいい匂いが漂ってきたあとの記憶がない。


「早いね、おはよ」


 そっと起き出そうとしたが、テントを出る寸前に声がかかった。顔も見えない程度に振り返り、同じ言葉を返す。


「おはよ。コーヒー沸かすね」


 湯の煮立つまで、朱里はテントの中で身支度を整えた。無力で役立たずの陽輝としては、どんな顔で迎えるか考える猶予となる。

 無論、答えが出ずに頬を引きつらせ、喜怒哀楽のどれでもなくなったが。


「そういえば、どうして週末はダメだったの?」


 昨夜と同じ位置に座った朱里の、最初の発言。しっとりと涼しい、朝の空気に触れるでなく。インスタントながら強く香る、コーヒーを注視するでもなく。


 ステンレスのカップに砂糖とミルクを添えて渡し、陽輝は辺りを見回した。これは朱里を見ないためでなく、説明の材料を探しただけだ。


「これ」


 関家御用達のキャンプ地。踏み固められた土地の、端のほうから石を拾って戻る。片手でちょうどの花崗岩には、煤が付いた。一つの面にだけ。

 ただ見せるだけでなく、指で筋を引いた。指の腹には特殊メイクに使えそうな黒色がべったり。


「よその人が来てるの?」

「うん。兄ちゃんたちが居たころも、週末はよく来てたみたい」


 遊ばせている山だ。これと害が出ない限り、長明は黙認の構えらしい。新しい煤を見せただけで悟った朱里は、ぐるりと周囲に目を向ける。

 朝日に逆光となった木々や、シャンデリアのごとく輝いた沢の流れを。




 関家に戻った朱里に、キャンプに行く前と違った様子は見えなかった。帰宅してすぐ昼食を拵え、陽輝の宿題の相談に乗りつつ夕食の準備もした。


 翌日は朝から畑の手伝いに駆り出され、もちろん陽輝も手伝いの手伝いに汗をかいた。

 さらに次の日は、保育所の掃除。普段の半分以下という子どもたちに遊ばれながら、秋の行事に使う道具の整理をする。


 どの日も、なにをするにも。朱里は優しく微笑んだ。

 北条からの連絡を、長明や満江へ話したのだろうに。見たわけでないが、陽輝から「ちゃんと話したのか」と質す度胸も立場もない。


「おかしいじゃろ」


 呟いたのは、また畑の手伝いをするさなか。飲み物を頼まれた陽輝が台所へ行くと、麦茶を飲み干す満江と出くわした。


「あらハルくん。手伝うてもろうて悪いねえ」

「ううん。やることもないし」


 という会話のあと、満江は菓子を持ってプレハブに向かう。大きな大きな、あくびをしつつ。

 キャンプの日に震えていた朱里とは、比べるべくもない。慌てふためけとは言わないが、もう少し緊張感のあるものでないかと思う。


「伯母さん、朱里ちゃんが嫌いなんか?」


 裏を知ればそう感じるものの、母娘が直接話すのを見る限り、険悪な気配はない。この日の夕方など、珍しく二人で台所へ立つ姿もあった。


「あんた。ええ加減、アジくらいさばけるようになりんさい」

「だって睨まれるの怖いじゃない」

「もう死んどるのに、睨むもなにもないわいね」

「死んでるから怖いんでしょ」


 と互いを非難するものの、二人ともが笑っていた。あまつさえ、わき腹をつついてくすぐり合いもする。

 三日もかけ、やっと朱里に笑い返せるようになった陽輝には、想像も及ばない光景がそこにある。


「朱里ちゃん、凄いわ」


 台所との境、二歩手前。口が勝手に呟いた。なにを言ったか、聞き取れはしなかったろう。だが母娘は、揃って振り返る。


「あら、ハルくん。居ったんね」

「ハルくん、なにか要るの?」


 首を振って否定するしかできなかった。後退り、その場から逃げる。陽輝の足は、無意識に玄関へと向かった。


るかな……」


 ワックスをかけたように黒光りする受話器を取り、指の鍛えられそうな重いダイヤルを回す。

 母の仕事は午前と午後のシフト制だ。運が良ければ、出てもらえる。


「もしもし」

「あ、母さん?」

「うん。どうしたん、なんかあった?」


 なにかあったかと言われても、なにを言えばいいやら。などと言えば、電話をかけてきたのはそっちだと叱られるだろう。

 なにしろ母が帰省するのは、もう明日のことだ。


「……いや、なにもない。明日は予定通りなんかなと思って」

「そうじゃね。明日も午前中だけだから、家を片付けたら出るよ」

「うん、分かった。気を付けて」


 助けてもらおうと、はっきり考えてのことではなかった。しかし満江と仲のいい母なら、どうにかできそうな気はする。

 ただしそれも、陽輝がきちんと頼めばこそ。


 なぜそんな話が耳に入ったか、いきさつを話す勇気が持てない。だから強引に話を終え、受話器を置こうとした。


「あっ、陽輝」


 既に耳から離していたけれど、あまり聞き覚えのない、母の大きな声が動きを止めさせた。


「え、なに?」

「んー。なんだっけ」

「ええ?」

「あ、そうだ。なんか食べたい物とかある? お母さん、買って帰ってあげる」

「そんなん、ないよ」


 なにか希望があるか考慮する間も持たず、すぐに要らないと答えた。きっと母は、せっかく言ってあげてるのにと抗議するはずだ。


「うーん、分かった。適当に見繕うね」

「え、うん」

「じゃあまた明日」


 予想に反した返答に戸惑う。こちらからかけた電話というのに、母はその間に切ってしまった。


 唯一の援軍を、自分から断った。どうにかうまく理屈をつければ、朱里の悩みを解消できたかもしれないのに。

 そうすれば北条との結婚もなくなり、陽輝にチャンスの回る可能性が高まる。


「いや。母さんが来てからでも遅くないわ」


 まだまだ、起死回生の機会が潰えたわけでない。陽輝は受話器を戻し、台所へ向かった。

 今からでも、朱里たちの手伝いをするために。

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