第21話:揺れるあかり
「優しいよね、凄く。ハルくんてさ」
「そりゃあ――当たり前じゃん、朱里ちゃんなんじゃけえ」
悲しむのが彼女でなくとも、優しくしない人間など居るものか。ましてや今は、だ。
「ハルくんはずっと、あたしの味方で居てくれるの?」
「当然よ。俺、本気じゃもん」
朱里の気持ちが、折れかけている。たった数分でここまで追い込むことのできる北条が憎らしい。
追い込んだこと以前に、彼女にそれだけの気持ちを抱かせていることが。
「良かった、一人じゃなくて。傍に居てくれるのがハルくんで助かったよ」
「いや、ええと。あらためて言われると照れるけど、なんでも頼ってや」
彼女がなにを言おうと、なにをしようと、すぐに応じる。そうすれば傷の深まるのを食い止められるはず。
信じて、即座の返答を続けた。急に持ち上げられ、顔が真っ赤になっても。
「うん、嬉しい。ありがとね」
「ええって」
パスタの皿がゆっくりと、足元のシートに置かれた。朱里は屈んだまま、両手で顔を覆う。洗顔に似た格好で、目元を指先が押さえる。
見とったらいけんのかな。
迷ったが、目を離せなかった。そのまま焚き火へ倒れ込みでもするのでないか。煙と一緒に夜闇へ混ざってしまうのでないか。漠然とした不安が、ふつふつと沸く。
「うん、ごめん……」
なにに対する謝罪だろう。それ以上に気になったのは、声の細かく震えたこと。
答えが思いつかない。眺めるだけの陽輝の前で、朱里は天を仰いだ。両手で顔を隠したまま。
二度、ゆっくりと深く息を吸う音がした。凍えたようにしゃくり上げて。
俺が付いとる、とか? バカか。
かけるべき言葉の候補が、光の速さで消えていく。頭の辞書を捲り尽くし、黙って見ているしかないと悟った。
それから、朱里が鼻をすするまで。ほんの数十秒が重い。風が全て鉛に変わったかというくらい。
「ごめんね。ごめんなさい」
「ど、どうしたん。なにも謝ることないよ」
「違うの。あたし、ずるいの。慰めてくれるの分かってて、ハルくんはあたしを好きって言ってくれたのに」
両手が顔から離れても、朱里は空を見上げ続けた。頬の濡れた様子はなく、声もいつもに戻っている。
「なんもずるくないってば。俺は朱里ちゃんのことが一番って言ったじゃろ」
ただ、どうも話す意味が分からなくなった。北条の話と思っていたのに。
それでも朱里を責める理由はない。伝えようとしても、先ほどからオウム返しのごとくだ。語彙に乏しい自分の脳みそが、苛々とする。
「あたしね、お母さんとケンカしてるの」
「ええ?」
なるほど、これは分からない。いつの間にか朱里は、二つ三つ先の山を歩いていたようだ。
北条の話とどこで交わるのか、直近の十字は見えないままだが。
「お母さん、『北条さんと必ず結婚しろ』って言うの。分かってるって言っても、しつこく繰り返し」
「――うん、なんで?」
こうも明確に、伯母が反対派と聞かされたのが微妙につらい。陽輝の想いを欠片も知らないのだから、仕方がないけれど。
「最近、体調が悪くて。いつまで生きられるかとか言ってて。だからタクちゃんみたいに条件のいい人を逃がしちゃダメ、ってね」
「伯母さん、病気なん? 知らんかった」
「あっ、うん。病気って言っても、更年期障害よ。あちこちしんどいとは思うけど、死ぬようなことはないの」
陽輝には初耳の病名だったが、病院にも定期的にかかっていると朱里は言った。
それほど珍しい病ではないけれど、伯母は重いほうらしい。しかし無理をしなければ生活に支障もないのを、医者が太鼓判を押したと。
「ああ、それで昼寝しとったん」
「うん、そう。でもそれはいいの、休憩も大事だから。嫌なのは自分に都合のいいことばかりで、都合の悪いことは信じないところ」
「都合?」
「近いうちに死ぬから、しんどいことはさせないでって。料理も畑仕事も、代わりが居たらしないの」
プレハブの奥で眠っているのを、「朝が早かった」と祖母が言った。特にどうとも思わなかったが、するとあれは庇われていたことになる。
おいしく食べたハムは、祖母の良心だったのかなと口が苦い。
「バランスよくなんでも食べるように言われてて、好きなだけ食べろとは言われてない。ストレスを減らせとは言われたけど、好きなことだけしてなさいとは言われてない」
指折り数える表情が、険しくなっていった。憤りよりも悲しい気持ちが大きいように感じる。
糖尿病のように適度な食事や運動が必要なら、だらだらしているのは自殺行為だ。朱里の言い分は、とてもよく分かる。
「それとこれとは違うって分かってるけど、今のお母さんに言われると腹が立つの。なんだかあたしが結婚するのさえ、お母さんのおかげみたいな言いかたして」
結婚の言葉を聞くと、胸に杭でも打たれたような心地がする。朱里の顔にも、しまったと慌てる気配はあった。けれども止まらないようだ。
しかしやっと、話が見通せた。伯母の満江は自身の病気を命に関わるものと思い込み、医者や家族の声をまともに聞かなくなった。
その勢いままに結婚まで好き勝手言われたのでは、たしかに厄介だ。
「今になって、式ができないって。あたし、なんて言えばいいの。困ってるのはあたしなのに、どうしてお母さんに責められなきゃいけないの」
問われても、正答の持ち合わせがない。たとえば代わりに伯母と話すと言ったところで、相手にもされまい。
なにか訴えるのに、誰でも彼でも声を上げられるわけでない。それくらいはもう、理解している。
なんかあるじゃろ。気休めみたいなことでも、俺にもできることが。
だからなにも。ひと言も声を出せなかった。陽輝にできることがないか、頭をひねるばかりで。
「ハルくん、ありがとう」
「えっ、俺なにもしとらん」
ほっとため息を吐いて、朱里は枝を拾い上げる。消えかけた火に、燃え残った薪を寄せ集めた。
「ハルくんには嫌な話なのに、最後まで聞いてくれたよ。今もどうしたらいいかって、必死に考えてくれてるよ。だからあたし、凄く嬉しい」
「嬉しいって。解決できんかったら意味ないじゃん」
明るさを取り戻した火に、朱里の横顔が揺れる。ちらちらと視線をこちらに向け、目が合うたびに微笑む。
俺が慰められてどうするんや。
絶望的な無力感が背中を刺した。前へ進め、なにかやれと急かされて、どうしようもないことにまた凹む。
おそらく苦笑くらいは浮かべられたと思うが、自信はなかった。
「ねえハルくん」
「な、なに?」
「あたし、着替えようかな。テント、使ってもいい?」
「うん、使って」
もう寝る時間か? と、時計を見た。午後九時まで、あと数分。朱里も間が持たなかったのだと察する。
ランタンの灯りがテントを内から照らし、朱里のシルエットを映した。服を脱ぐ動作が見えて、慌てて目を逸らす。
俯き、淀んだ息を大きく吐き出した。自分はもう少し使える人間だと思っていたのに。こんなにダメな奴だったとは、と。
このままではいけない。北条が脱落しかけているのだから、チャンスなのだ。もちろん相手を蹴落とすような真似はなしで。
「朱里ちゃん。俺、なにか考える。じゃけえ、少しだけ待っとって」
空の手形になっても、黙っていられない。夜の山には過ぎた声が、衣擦れの音を止めさせる。
「無理しないで」
優しく諭す声。
もう二度と聞きたくない。そう思うのと同時に、やはり自分の傍へいつまでもあってほしいと思う。
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