第20話:冷えた夜
「あたしはどうすればいいの!」
びくっと。首を竦め、逸らしていた視線が思わず朱里へ向いた。
耳に届くかようやくという声で、揉めている気配はあった。じっと見つめるのも聞き耳を立てるのも厭らしいと思い、素知らぬふりを決め込んでいたのだが。
すぐに声量は元へ戻り、なにを言っているか聞き取れなくなった。が、やはり責めるような拗ねたような、感情的な声と思う。
それからすぐ、電話は切れてしまったようだ。気まずい気持ちが、目を腕時計に向かせる。永遠と感じた時間は、ほんの七、八分のことだった。
黒くなったスマホの画面を、しばらく朱里は見つめた。通話を終えた指もそのまま、彫像のごとく動かない。
「あか……」
これと危険もあるまいが、放っておいて良いものか。発しかけた声が萎む。朱里ちゃんと呼ぶのは簡単だが、それはある程度の様子を察したと自白するようなもの。
俺、どんな顔しとればええんや。
見ていられなかった。彼女がどうこうでなく、自分の気持ちの置き場所が分からない。
じっとしていられず、細い薪をひと握り投げ込んだ。すぐさま、ゴウと盛る炎を無闇につつく。小さな火の粉が舞えば舞うほど、自分の行為が無意味でないと保証してもらえる気がした。そうだ、風も冷えてきたじゃないかと。
「ハルくん。ごはんの途中だったのに、ごめんね」
「う、ううん。なんか用事だったんじゃろ、気にせんで」
戻ってくる朱里の足音は、鉄の鎖を引き摺っていた。すとん、と尻もちをつくように座り、冷めきったはずのスープパスタの皿を抱える。
今、焚き火が言うことを聞かなくて忙しい。とでも言いたげに、陽輝は薪をつつき回した。朱里を正面に見ない言いわけが、他に思いつかなかった。
「おいしい――」
「温めなおす?」
「大丈夫」
視界の端ぎりぎりに、箸を咥えた朱里が映る。まなこはぼんやり炎へ向かうが、焦点は地中数メートル辺りに結んでいる。
右手が何度も、同じペースで上下した。皿の中で具材を摘み、口の中へ運ぶ。動作としてはそうだが、五回に四回は空荷だった。
こういうとき、図々しく聞いたらダメなんじゃろ。
詮索屋が嫌われるのは、高校生も大人も同じはずだ。「俺に言ってみろよ」などと、ドラマでもそんなことを言う登場人物は煙たがられる。
いやでも、俺が恋人じゃったら聞かんとまずいんか?
現実は違う。しかしそうなろうと立候補する立場。ライバルとの会話でなにかあったらしい女性を、放置していいのか。
陽輝が参考にする知識は、やはり創作の中にしかない。佐伯にも能美にも、恋愛の匂いを感じたことすらなかった。
予想される未来の一つは、「実は」と朱里が打ち明けてくれること。問題を受け止め、解決した陽輝が信頼を勝ち取るのだ。
けれどももう一つ、どちらかと言えば可能性の高い予想があった。
それは「放っといて」と、シャットアウトされること。そうなれば朱里との関係自体も、ここでシャットダウンしてしまう。
両者の中間にも、未来はあるだろう。陽輝の恋した朱里なら、そんな両極端な応じ方はすまい。信じているが、考えるうちにまた二者択一へ戻ってしまう。信頼か、シャットダウンか。
用意された正解のない選択に、握った枝がへし折れた。忘れていた空気が肺に入って、はあはあと荒い自分の息に苛とする。
「ハルくん」
「……え、えっ呼んだ?」
「うん。ごめんなさい、黙っちゃって」
「いや全然。火に夢中になっとったわ」
ぼそぼそと聞き取りにくい声。そうでなくとも意識をよそへやっていて、気付くのが遅れた。
火に夢中とはどんな高校生だ、と。用意した返答がバカバカしい。
「来年の一月なの。もう案内状は印刷してもらって、宛名もほとんど書き終わった」
「ああ……」
結婚式の日取りも決まっているらしい。その宛名には自分の名もあるのかなと案じて、俺はアホかと自嘲する。
「四月からね、また外国に行かなきゃいけないって。あたしも一緒にって。そう言われて、いいよって答えたの。だから結婚式は、間に合うようにしたの」
朱里が居なくなる。県外どころか、日本からも。車で数時間では届かない距離へ。
そんな非道を働く北条を許せない。だが彼女自身、その条件を呑んだと言った。すると陽輝との距離は、考慮になかったことになる。
「それなのに、できないって」
「できない?」
折れて短くなった枝を、火に投げ入れた。ようやく、朱里の顔を見たくなった。
「早まったんだって。年末には向こうへ行かなきゃって」
「じゃあ結婚は――」
「分かんない」
「分からん? 北条、さんが。そう言ったん?」
聞いた中身と自分の感情と、整理すべきことが多すぎる。おかげで片言のようになった問いに、朱里は頷いた。首がもげたかと思うほど、がっくり下を向く。
外国へ行くからって、結婚をやめるとかあるんか? でも朱里ちゃん、そういう勢いにしか見えんし。
破談か、そこに近い状況らしい。とは推測だが、だからと「やった」とは思えなかった。目の前に、大好きな朱里の絶望の顔がある。拵えた大悪党へ怒るのが先だ。
「絶対に大丈夫って聞いてたから、ダメになったときのことなんて決めてないの。タクちゃんも、結婚式が中止としか分からないって」
「そんな言いかた、ひどいわ」
朱里を悲しませること。それなのにまだ、タクちゃんと呼ばれること。
陽輝が沸騰するには、これだけでも十分過ぎる。奥歯がぎりっと鳴って、重々しくなった自分の声に気付く。
朱里ちゃんの前で怒ったらいけんわ。
あくまで、悪いのは北条だ。彼女へ向ける感情は、温かく柔らかなものでなければ。
「俺じゃったら、絶対に朱里ちゃんを泣かせんのに。どんなことがあっても、朱里ちゃんを一番に考えるのに」
「ハルくん……」
静かな決意は、心の底からの本心だった。
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