第19話:焦げつき

「うわ、焦がしてしもうた」


 遠火で、煙の出ていなかったことに油断した。虎の子の厚切りハムが、絵の具で塗ったように真っ黒だ。慌てて紙皿に取ったところで、元へは戻らない。


「あらら、やっちゃったね。でも、そういうのもキャンプならではだよ」

「いや、こんなん朱里ちゃんに食べさせられんよ。もう一回焼くけえ、ちょっと待って」


 フォローは嬉しかったが、彼女の歯を黒く染めるわけにはいかない。そもそも二人分には大きすぎるハムだった。あらためて見ると、同じ厚さにまだ十枚以上が切り出せる。


「あ、ハルくん。ちょっと待って」


 関家の台所から持ち出した小さな包丁をあてがうと、朱里が手を伸ばした。「どうしたん?」と振り向けば、彼女の柔らかな肌が陽輝の右手に添えられる。


「な、なに?」

「もし良かったらだけど、あたしにもお手伝いさせて? せっかくハルくんが焼いてくれたのに、ムダにするのもったいないもん」

「え、うん。いいけど、どうするん」

「ありがと」


 失敗したのは陽輝なのに、朱里は礼を言った。これになんと答えたものか、どれだけ辞書を捲っても答えが載っていない。

 その間に彼女は、包丁と焦げたハムの皿を奪い去った。どうやら焦げた部分を取り除こうというらしい。カンナで削ったように、とは言いすぎだが、一ミリと少しの厚さを平坦に削ぎ取っていく。


「ほら焦げてない、おいしそう」

「朱里ちゃん、凄いわ。料理人になれるんじゃない?」

「またまた。そんなの無理よ」


 まだところどころ、黒い部分はあった。しかしこれなら炭でなく、焦げ目と呼ぶことも許容できる。

 朱里はそのまま、包丁でハムを切り分けた。二枚をそれぞれ四等分にし、一つを摘んで口へ運ぶと、残りを皿ごと陽輝に差し出す。


「わあ、これおいしい。メーカーどこのかな」

「え、そんなに?」


 陽輝も倣って、一つを口へ放り込んだ。薄切りで安売りの物としか比較できないが、ゆえに言える感想がある。


「うん、万札の味がするわ」

「ね」


 顔を見合わせ、次々とハムを食らう。おいしいと言ったのはお世辞でなかったようで、朱里も陽輝と同じ速度で飲み込んでいった。


 あーんって、してくれたりせんかな。

 そういう願望はよく聞くが、実際のところ定番なのだろうか。事実はともかく、憧れはある。だが自分から、やってほしいと言い出す勇気はない。


「あ、ハルくん」

「な、なに?」


 胸の高鳴ったのを、ときめきと呼んではあまりに不純だ。しなやかに動く指の先を、獲物を狙う飼い猫のように追う。

 けれど。彼女の指は視界を横切り、まだ火にかかる鍋に向いた。


「その野菜はどうするの?」

「あー、これね……」

「え、どうしたの。あたしなにか悪いこと言った?」

「いや全然。忘れるとこじゃったけえ、言ってもらえて助かったわ」


 勝手な落胆は沢の流れへ放り投げ、最後のメニューに取り掛かった。

 煮たのをそのままに温野菜という手もあるが、少なくなった煮汁へ細いサラダ用のパスタを放り込む。


 調味料は例によって、万能スパイスのみ。牛乳も注ぎ、クリームスープパスタ風のなにかができあがる。

 味見をすると、自分は天才かもしれないと思った。


「へえぇ、キャンプでこんなのまで作れるんだ。凄いすごい」


 小さく拍手をして喜んでくれるさまを、無邪気と評しては偉そうだろうか。しかし他に表す言葉はなく、朱里の可愛らしさが凝縮抽出されてそこにあった。僅か前の邪な欲求も、きれいさっぱりと忘れてしまう。


「どれくらい食べる?」

「ハルくんと同じでいいよ、半分こしよ」


 彼女に健啖な印象はない。だからお玉に一杯分をよそって見せたが、まだまだと横に首が振られた。

 半分ことなると、その三倍ほどにもなる。ただし体積のほとんどはスープで、まあ大丈夫かと要求に従った。


「涼しくなってきたから、ちょうどいいね」


 朱里は目を細め、深い紙皿に口を付ける。スープをひと口、それから箸で麺をすする。パスタと言うよりラーメンを食べているようで、ずずっと啜る音が連続した。


 言われてみれば、風からぬるさが失せている。陽輝とすれば、まだまだ布団もかけずに寝転がりたい温度だが。

 なにかあったっけ。とリュックを探ると、バスタオルが手に触れた。


「これ使う?」

「ええっ? ハルくん準備いいね、ありがとー」


 暑ければ寝具に使えると考え、持参した物だ。朱里は皿を膝へ載せ、両手で受け取る。

 陽輝にも覚えのあるブランド名が、彼女の両肩を包む。安っぽい生地が、限りなく偽物っぽいけれど。


「食べるの遅くてごめんね」

「俺が早いだけじゃけえ、気にせんとって」


 自分の皿が空になったころ、朱里はまだ半分を残していた。食べあぐねる様子はなく、当人に言った通り、食べる速度の差だ。

 慌てることはない。子どもの寝る時間にも、まだまだ遠い。


 そう思い腕時計を見ると、八時を回ったところだった。

 みはからったように、タタタンと軽やかな曲が流れ始める。CMで聞き慣れた、スマホの着信音。


「あっ、ごめんね」


 朱里は手にした皿をどこへやるか迷い、陽輝の出した手に置いた。急ぐ動作でリュックのポケットを探り、ピンクのスマホを取り出す。


「もしもしタクちゃん?」


 ……こんなとこまで。

 いきなり飛び出した呼び名に、眉をひそめた。

 結婚を約束した相手に電話をしても問題はないし、こちらがキャンプ地に居ることももちろん知るまい。

 理屈に合わないことなどなにもないと、分かっている。だからこそ、腹が立った。


「あのね、今日はね、キャンプに来てるの。焚き火をしてね――」


 弾む声。溢れて飛び散るような笑顔。焚き火の揺らめきのせいか、余計にいきいきとして見えた。

 かいてもいない額の汗を腕で拭い、背中を向けてリュックから取り出したタオルを顔に当てる。


「ん? うん、大丈夫」


 急に、音階が下がった。振り向くと、特にどれという感情のない顔で朱里の視線とぶつかる。

 彼女は慌てた様子で顔を背け、ここまで来た道を見回す。


 どうかしたんかな?

 朱里の動きに意図が見えず、ぼんやり眺めるしかない。その間も北条拓海はなにごとか話しているようで、「うん、うん」と相づちがある。


「ねえ、これ借りてもいい?」

「え、ええよ」


 スマホのマイク部分を押さえ、小指がランタンを指す。どうするのか予想もつかなかったが、断る理由もない。

 彼女は左手に灯りを確保し、闇の中を戻り始めた。まさかそのまま帰るつもりかと思ったが、十歩ほどのところで止まる。


「ああ、そっか」


 重要そうな通話だ。陽輝に聞かせたくなかったのだと、今さら気付く。

 だがもう遅い。朱里が電話を終えるまで、ここで間抜け面をさらすしかできることはなかった。

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