第16話:バアちゃんの心遣い
月曜日の朝。陽輝は筋肉痛で、なかなか布団を離れられなかった。前日も前々日も痛みはあったが、今日は早起きする理由がないからかもしれない。
結局そのまま、二度寝をしてしまった。再び起きて居間へ行くと、時計は十二時を回る寸前だ。
「ハルくん、おはよ。よく寝てたね、やっぱり疲れちゃったね」
座卓を拭く朱里が、微笑みかける。寝過ぎて眠い感もある頭の中が、急速に覚醒した。
「え。見たん?」
「あっ、ごめんね。朝ごはん食べるかなって、覗いたの。嫌だったよね」
「い、いや。嫌じゃないって。全然気付かんかったなと思って」
朱里はしゅんと、肩を窄めた。彼女がなにをしようと、嫌がることなどないのに。よだれを垂らしてでもいなかったか、恥ずかしかっただけだ。
「ちょっと呼んでもみたんだよ。でもよく寝てた」
「そっか。なにも手伝わんでごめん」
「ううん。今日はお父さんも、寄り合いに行ってるよ」
言われてみれば、家の中も外も静かだった。長明が居ればテレビの音か、農業機械の音かがするはず。
県道の向こうを流れる江の川が、絶えずサアッと唄うだけ。
「セキショのバアちゃん!」
澄ました耳に、男の子の声が響いた。窓から見れば小学生らしき子らが三人、自転車で関商店に突っ込んでいく。
自転車を止めるというか倒すというか、乱暴に置いて店内に駆け込む。それほど焦って、なにがあるのだろう。またトレーディングカードでも流行っているのかもしれない。
「セキショって略すんじゃね」
「セキショーだったんだけどね。関所になって、おバアちゃんが門番らしいよ」
「越えたら、ハンター試験でもあるんかね」
「ハンター?」
「漫画の話よ」
妖怪時計のメダル、まだあるんかな。
陽輝が小学生のとき、スーパーへ行くたび母にねだった。一人っ子のせいか、買ってもらえなかったことはない。
捨てた覚えはないので、自分の部屋のどこかにはあるはず。探し当てたところで、遊ぶ予定もないが。
「ねえハルくん。週末じゃなくなったけど、今日はどうするの?」
「えっと。お昼を食べた後、出かけられる? 山に入れる格好で」
「山にね、分かった」
顎を弾ますように頷き、朱里は台所へ戻っていった。靴下を履いていない足が、飾り気のないブルーのワンピースから伸びて動く。
無意識にじっと眺める自分に気付いて、慌てて目を逸らした。
「ちょっとバアちゃんとこ行ってくるね」
「はーい」
玄関から声を張ると、蛇口を閉める音が甲高く響いた。律儀に答えてくれる声に、ほくそ笑んでしまう。
我ながら気持ち悪いと思いつつ、プレハブへ。来客は、さっきの小学生たちだけ。奥の椅子に、今日も祖母は座っていた。
障子ガラス入りの引き戸が、その後ろにある。レジスターを置いた作業台がバリケードと考えれば、たしかにあれは門番だと合点がいった。
と同時に、あれ? と思う。満江も居ると思ったのだ。十畳余りの店内に、照明の不足を加味してもやはり見えない。
「バアちゃん、調子どう?」
「うん? 別に儲からんでもええんよね。こりゃあ暇つぶしみとうなもんじゃけえ」
祖母と作業台の間をすり抜け、ネットに繋がっていないアナログのレジスターに隠れる。そこに空いた椅子があるくらいは、陽輝も知っている。
「あ、うんバアちゃんがね。調子悪いとことか、ないか思って」
「ウチは元気よね。棚へ並べるんも、一人でやるんよ」
節くれだった指が、誇らしげに最上段の棚をぐるり示す。
在庫か大人買い用か、箱のままの菓子。今どき誰が使うのか、両手に抱えるようなざる。浮き輪やビーチボールに、ビニールの洋凧。
用途や季節感も統一のない品々が、ところ狭しと並んでいた。
釣り糸などを使い、一応は魅せる工夫もしているようだ。が、それはさておき。問題は高さだ。
天井までは二メートル以上あって、祖母では仮にジャンプしても届かない。隅に立てかけてある、錆びて真っ茶色の脚立で行うらしい。
「ふーん、凄いね。でも危ないじゃろ、俺がおる間は言うてや」
「やってくれるんね。そりゃあ助かるわ」
祖母の手がちょっと持ち上がって、陽輝の太ももに落ちてくる。ぱちんといい音がして、そのまま撫でられた。
昔から、頭を撫でられたことがない。祖母のスキンシップは、いつも足か背中だ。
「バアちゃん、これちょうだい」
小学生のリーダー格だろうか。三人とも背格好は似たようなものだが、気の強そうな顔つきの子がレジ前に立った。
あとの二人も順に並び、それぞれ三つずつの商品を持っている。
ああ、呪術大戦か。
人気の漫画のウェハースチョコ。菓子よりも、オマケのシールが本命の商品。原作はともかく、この食玩がそれほど人気とは知らなかった。
「これ、ちょっと重いけえ。絶対キラで」
「ほうね。バアちゃん知らんけえ、ええのが出たら教えて」
「ええよ、次来たときに教えちゃるわ」
差などあるはずもない重さや、パッケージのちょっとした印刷ズレなどで、レアアイテムの有無を見分けようとする。
俺もやったな、と懐かしく思った。
「陽輝も要るんなら、持っていきんさい」
「えへっ? 俺は集めとらんよ」
竜巻のように去っていった小学生と陽輝は、祖母から見れば同じなのかもしれない。
少しショックな気もしたが、それ以上に面白くて噴き出す。
「ほうね。じゃあこれ飲みんさい」
代わりに差し出されたのは、フルーツ牛乳。祖母の向こうにある壁に埋め込まれた格好の冷蔵庫へ、まだ十本以上が見えた。
同じ商品を広島市内では見かけないが、どこから仕入れているのやら。
「うん、ありがと。昨日久しぶりに飲んだけど、うまいね」
「ほうじゃろ。ウチも好きなんよ」
そう言う割に、祖母が飲んでいるのは見たことがない。わざわざ言うほどのこともなく、クリーム色の中身を一気に飲み込んだ。
「そういえば、満江伯母さんは?」
話が逸れて、忘れかけていた。思い出したのは、フルーツ牛乳の瓶を捨てる場所を探したから。
床に、茶色のサンダルがあった。先日は朱里が履いていた物だが、夜には母屋の玄関に戻っていた。
「満江さんは、奥におるよ」
「なんかしとるん?」
ガラス障子の向こうは、六畳くらいの板間になっている。在庫置き場であって、休憩場所として半分は畳が敷いてあったはずだ。
ぼんやり透ける色味を見ても、誰かが歩いたり、座って作業をしている様子はない。
「朝が早かったけえね。昼寝しとるわ」
「ああ、そうなんじゃ」
なるほどそれなら分からないはずだ。早朝になにをしていたか知らないが、祖母がそれで良しとするなら口を出すことでない。
「陽輝、今日は山へ行くんじゃろ?」
「え、うん。そうよ」
「ほしたら、これ持っていきんさい」
祖母は傍らのでなく、牛乳やインスタント食品を陳列する大きな冷蔵庫へ立った。戻ってきた手には、その上腕よりも大きなハムが握られている。
「ええ? こんなん高いじゃろ」
「ええよ、ええよ。ウチにはこれくらいしかできんけえ」
「うーん、そうなん。じゃあ、もらうけえね?」
受け取ると、祖母は銀色の保冷袋を取り出した。アイスクリームの持ち帰り用らしく、大きなハムは入りきらない。
「朱里ちゃんと一緒に行くんじゃろ? おいしゅうに食べさせちゃって」
「うん、任せて」
そろそろ朱里が、昼食を前に待っているかも。腰を上げると、祖母の手が背中を叩いた。
「ほいで、話ぃ聞いちゃって」
「話? どうかしたん」
朱里の話を聞いてやれ。わざわざそんなことを言うとは、なにごとかと陽輝でも察する。
だが祖母は、「どうもせん」と首を横に振る。
「いとこ同士じゃけえ。ほいで陽輝には、お姉ちゃんみたいなもんじゃろ。仲良うしんさい」
それはもちろん。とは思うが、素直に頷けない。いやこの際、彼女にしたい云々はさておいてだ。
しかし祖母は、もう「行っておいで」と手を振った。問い直しても、きっと答えは変わらない。
「いとこ同士、仲を深めてくるわ」
開け放したままだったサッシを、ゆっくりと閉じる。
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