第15話:関家の風景

 景色に圧倒され、水草へ網を入れ。大岩にくつろぎ、深みへ腕を伸ばし。探索すること、四時間ほど。

 とうとうバケツに魚が入ることはなかった。


「一匹くらい捕れると思ったんじゃけど、ごめん」

「ええ? ハルくん、なにも悪くないよ。お魚だって、捕まりたくはないもんね」

「そりゃまあ」

「でしょ。あたしたちは、頑張ってお魚を捕ろうとした。でもお魚のほうが、かしこかった」


 朱里は一人、うんうんと頷く。

 なにを言っているのだかと苦笑し、自分は魚以下かとショックを受けた。だが心なしか、重かった足が軽くなる。


「あ。ハルくん、元気になった」

「ん、なんで?」

「水の音がね、じょぼぼぼって言ってたの。でも今、ざばっざばって」

「そう? 朱里ちゃんの話が面白かったけえよ」

「えー、あたし変なこと言った?」


 変なことは言ってないよ。俺が変になりそうなだけで。

 これはあくまで遊びだ。できれば朱里に一匹くらいは捕らせてやりたかったが、生き物が相手だから仕方がない。


 残念そうなそぶりの欠片もない彼女を見ていると、ほっと落ち着いた。いいところを見せようとしたのが、バカバカしくもある。

 胸に重みを感じないこの時間は、間違いなく朱里の与えてくれたもの。

 ただしまだ永遠でないことを、ふと考えてしまった。


「そう言えばハルくん。後のお楽しみって、なあに?」

「うーん。これからやるのは、しんどいじゃろうね。あ、でも明日は金曜になるんか」

「金曜日だとダメなの?」

「うん週末はちょっと」


 先を歩いていた朱里は立ち止まり、振り向いた。

 ただでさえ心臓に悪いのに、なにげなさを装うと距離が縮まる。十歩が一歩になって、ようやく「ふうん」とウェーダーを履いてなお細い脚は動きだす。


「それじゃあ、畑の草取りでもしよっか」

「えっ、草取り?」

「あ、疲れちゃうかな。いいよ、休んでても」


 すっかり忘れていた。高校生だった従兄たちも、よく草取りや虫の駆除に駆り出されていた。

 その現場に陽輝も居たが、作物を傷めてしまうので走り回っていただけだ。


 炎天下、麦わらをかぶって汗を垂らす姿がつらそうだった。その光景がとっさに浮かび、きっと面倒そうな声になったことを悔やむ。


「あー。兄ちゃんたち、やっとったねえ。いややるよ、俺の順番じゃけえ」

「いいの? 疲れるけど、けっこう楽しいよ」


 長明と次光が作物を作る畑だ。朱里には父の手伝いで、彼女の性格を思うとやって当たり前だろう。

 さらにその手伝いを面倒がるなど、とんでもない。従兄たちがどうしていたか思い返していただけ、と下手な芝居を打つ。




 朱里に告げた通り、陽輝のプランに週末は適していない。ゆえに金曜日から日曜日の三日間は、畑作業の手伝いと決まった。

 一日目は草刈り機を持たされ、畦の雑草を薙ぎ倒す。これは意外に楽しく、ガソリンの補給さえレクリエーション気分だった。


「ハルくん、楽しそう」

「なんかね、きれいに刈れると悪者を倒した気分なんよ」

「分かる分かる」


 強いて難点を言えば、朱里が傍に居ないことだ。

 首を覆う布の付いた、ピンクの帽子。この暑いのに長袖のブラウス。小豆色のジャージ。

 いかにも農家の女性という格好を見て、最初の一瞬は驚いた。彼女はもう少し格好よく、おしゃれなトレーニングウェアでも着ると思っていたから。


 だが腐っても鯛。野良着でも朱里。鎌と手箕てみを両手に畦道を歩き回る姿が、ライブで花道を歩くアイドルに見えてきた。

 そもそも陽輝自身、従兄の使っていた体操服を借りている。人のことは言えない。


 二日目は、夏野菜の収穫を言いつかった。そろそろ秋植えをするので、食べられるものは獲り尽くせと。

 隣の畝に朱里の姿があって、昨日よりはいい。と思ったのも最初のうち、すぐに見えなくなった。


 収穫速度が違いすぎる。陽輝がひと株を終える間に、朱里は四、五株も進む。しかも「焦らなくていいよ」と気遣いの声が遠い。

 無理をすれば追いつけたかもしれない。しかしこれは、売り物なのだ。


「くそー。朱里ちゃん、早すぎるわ」

「あはは、頑張れ頑張れ」


 本気の愚痴を冗談めかしただけでも、褒められていいように陽輝は思う。

 隣の畑を見ると、長明がトラクターに乗って土を起こしていた。次光は軽トラで、肥料の袋を運んでいる。

 こういうとき、大人が羨ましい。


 三日目。

 刈った草を堆肥置き場へ運んだ。多少は乾燥していても、両腕に抱えると重い。それをネコ車に集めれば、まっすぐ進ませるのも難しくなる。


「ねえねえハルくん。草を平らに並べてね、これを撒くの」

「なにこれ」


 朱里はどこからか、二十キロサイズの米袋を運んできた。中身があるようで、ネコ車を止めるのにも慎重に足を踏んばっている。

 袋を覗くと、白い粉末が入っていた。正体は匂いで、米ぬかと分かった。


「ぬか? 撒いてどうするん」

「雑草と混ぜたらね、堆肥になるんだよ。だからミルフィーユにするの」

「ミルフィーユ……ああ、なるほど」


 雑草と米ぬかとで、交互に層を作るらしい。言われるままに草を束で敷き詰め、その上に米ぬかを撒いた。

 両手を突っ込んだ感触がふかふかで、どんな良質のクッションも敵わないほど気持ち良かった。


「そういえば朱里ちゃん、満江伯母さんは?」

「……ん?」

「伯母さんだけ居らんけど、具合いでも悪いん?」


 農家だって、土日は休めばいいのに。もしかすると陽輝たちが作業をしているので、休めないのかと気になった。

 次光夫妻はそれぞれ耕運機を持ち、二人がかりで畝を作る。長明は昨日収穫した畑の土を、さっそく混ぜ込んでいる。

 朱里の母。満江の姿だけが、畑で見かけない。


「たぶん、おバアちゃんと一緒。元気なんだけど、ずっと一人きりにするのも心配だから」

「そっか。バアちゃん、寂しいよね」


 五、六年前までは祖母も畑仕事をしていたはずだ。商店は、その日暇な誰かが店番をしていた気がする。

 祖父が亡くなってすぐ、祖母は一週間ほどの入院をした。病名は覚えていないが「おバアちゃん、疲れたんよ」と母が言っていた。


「朱里ちゃん、どしたん?」


 関家の隣のプレハブが、畑に背中を向けている。グレーの塗装が、サビでところどころ斑に見えた。

 急にそんなことを気にもしまいが、朱里はプレハブを見つめる。


「ん、なんでもないよ。早く終わらせて、晩ごはんの準備しよ。今日はね、ハルくんにご褒美なんだって」

「え、なんじゃろ」


 晩ごはんと言われても、その日の作業が終わったのでさえ午後二時過ぎだった。

 それから用水で冷やしたトマトを食べたり、ついでに流れを悪くしている草を刈ったり。午後五時の町内放送が聞こえたのには、ようやくと感じた。


 夕食がご褒美と言われては、気になって台所へ侵入してしまう。しかし包丁を持った朱里は、野菜を切るばかりで特に変わったことをしない。


 でも料理しとるとこって、貴重じゃった。今まで気付かんかったわ。

 花柄のエプロンは真新しく、朱里に似合っていた。カセットコンロや鍋を居間の食卓へ運び、美しく並べられた野菜の皿にエビやホタテの皿も運び。あれこれと何往復しても、苦にならない。


「それで終わり。ハルくんも座って」


 スイカの載ったトレイを持つと、朱里は大きなボウルを持った。中に粉を溶いた、白い液体が揺れる。


「分かった。今日、天ぷらじゃろ」

「せいかーい」


 用意の整ったことを知らせたわけでないのに、座卓には家族が揃う。

 家長席に祖母。隣に長明で、その対面に満江。陽輝は祖母の反対側が、この夏の指定席だ。


「じゃあ天ぷらパーティー始めまーす」

「陽輝、うちの野菜はうまいで。落ちんように、ほっぺた押さえとけよ」

「お、おう」


 これまで天ぷらを、特に好物と思ったことはない。好物と言ったこともない。

 だがそれは、過去のこととなった。


「えっ、なにこれ」

「ナスよ」

「いやそりゃ分かるけど。お店で食べるよりうまいじゃん」

「ほんと? 良かったー」


 ナスだけでなく、トマトも。スイカの皮も。アスパラは関家で作っていないが、同じ町内の物に違いない。

 どれも味が濃く、瑞々しかった。どこかで食べた、ほんのり野菜風味の油漬けとは全くの別物だ。今後、好物を問われれば、朱里の作った天ぷらが一番に挙がる。


「あ、そうじゃ長明伯父さん。明日、山に入ってもええ? 兄ちゃんらが使いよったとこ」

「お? ええで。母さん、構わんじゃろ」


 伯父と祖母。それに伯母は、冷たい焼酎を乾杯させながら頷く。

 後のお楽しみが、想定よりも長い後になってしまった。しかし許可さえもらえば、もう案ずるところはない。心置きなく、朱里の手料理を腹へ詰め込む。


「陽輝。揚げもんと冷たいスイカは食い合わせが悪いけえ、気ぃつけえよ」

「えっ」


 ありがたい伯父のアドバイスは、陽輝が「ごちそうさま」と手を合わせた後だった。

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