第14話:初めてを分け合って

 ざざっ、と。ゴムに包まれた足が水を分ける。絡んだ細長い葉が、またするりと滑りゆく。

 くるぶしほどしか浸かっていないのに、朱里はぶるぶるっと全身を震わせた。

 


「冷たーい!」

「流れが速いけえね」


 江の川へ注ぐ寸前の用水。ホタルを見た足下は上流と違い、両腕を伸ばしたよりも広い。勝手に生えた葦が、天然の吹き流しとして涼を誘う。


 風呂とプール以外へは入ったことがないと言う朱里に、初体験を独り占めさせてやりたかった。だから陽輝の足は、まだ土の上にある。


「座ったら、もっと冷やっとするよ」

「えー、やってみる」


 言われるがまま。朱里はその場へ腰を下ろし、脚を投げ出す。赤いTシャツから伸びた白い腕が、背中の側で水に浸かった。

 まさかそのまま寝そべるのかと焦ったが、彼女は気持ち良さげに空を見上げるだけだった。ぎらぎらと音のするような陽ざしが、水面で銀に撥ねる。


「ハルくんも来てよ、気持ちいいよ。えいっ」

「冷やっ!」


 関家に戻り荷物を解くと、朱里は陽輝の分もウェーダーを買っていた。置きっぱなしの水着でいいと思っていたが、せっかくなので使ってみた。


 だが水をかけられたのは、顔と首だ。防水でない部分を狙ったのでなく、コントロールが悪いだけだろう。

 しかし謝罪はなく。量を増した水が、胸や足にかかる。


「冷たいじゃろ」

「わっ!」


 戦闘開始となれば、遠慮は要らない。ざぶざぶと水に入り、手を浸す。ずぶ濡れになった指先を思いきり振るって、朱里の顔をびしょびしょにした。


 彼女は首にかけたタオルを使い、「もう」と口を尖らせる。だがすぐに、声を上げて笑った。

 こんなんで楽しいんか。と、逆に驚いてしまう。


「慣れたら川に行こうや。魚、捕るんじゃろ」

「うん、捕れたらいいね」


 小さな子どもみたいに、力いっぱいで頷く。引き起こそうと出した手で、思わず顔を押さえてしまった。


「もうハルくん、意地悪しないで」

「あ、ごめん。顔が痒くて」

「えっ、大丈夫? 虫刺されかな」

「いや、ちょっと痒かっただけ」


 顔の筋肉に厳戒令を出し、今度は無事、朱里の手を引いた。「よいしょ」というかけ声とはうらはら、祖母の家の古い冷蔵庫を開けるほうが、よほど力が要ると思った。


 用水は道路の下をくぐり、小さな滝となって川へ落ちる。薄暗いトンネルを、朱里は勇敢に進んで行く。


「そこ、ハヤがおるよ」

「どこ? 見えない」


 関家の前を流れる江の川は、二十メートル余りの幅に豊富な水量が流れる。護岸工事がされていても、常に膝までが浸かった。

 用水へ昇り降りする階段の脇へ、流れのない場所がある。背の黒いスリムな小魚が、十匹くらいで休む姿が見えた。


「そこよ。流れがないけえ、見えるじゃろ」

「うーん? 川の底は見えるけど、お魚なんて」


 目を細め、睨みつける朱里。陽輝の目には瞭然の魚影が、見えないらしい。僅かな水のうねりに尾を揺らす、あののんびりとした姿が。


「えーと、そこ。あ、もう一歩先。そこから網を入れれば、ちょうど届くよ」


 従兄たちは、水中の魚を探すのがうまかった。さっと眺めただけで、すぐに「そこ」と見つけてしまう。

 それがどこか教えてもらっても、陽輝の目には魚が映らなかった。いつも彼らは口を揃えて、それでは話にならないと笑う。


「ここね。ええと、あっ居た。ハルくん、お魚居たよ!」


 当てずっぽうでも網を入れれば、一匹くらいは捕まるかもしれない。そう思って誘導したのだが、ようやく姿を見つけたようだ。

 歓喜した朱里は玉網を振り上げ、力いっぱいに叩きつける。水しぶきが高く上がり、彼女の頭までも濡らした。


「捕れたかな? あ、入ってない」

「上からじゃ、水の抵抗があるけえね」

「そっか。どうやるの」


 空っぽの網を、朱里は悲しげに広げて見せた。ビギナーズラックと言うものの、さすがにあれだけ水音を立てては逃げられてしまう。


「脇に抱えて槍を突くみたいに、こう」


 水辺で遊ぶのに、使い方を教わったことがある。網の部分は水に浸けておいて、素早く前後にだけ動かすのだ。

 叩きつけたり、方向転換したり。横の動きが加わると、抵抗で遅くなってしまう。


「えっ。あたし槍なんて持ったことない」

「あはは、俺もないよ。あと、魚の頭が向いてるほうに入れられれば完璧」

「分かった。ハルくん、頼りになるね」

「そ、そんなことないけえ。それより、もっと大きいのが捕りたいじゃろ。おかずになるようなの」


 告白した胸の高鳴りは、いつしか過ぎ去っていた。そのことに気付いたのは、また大きく動悸がしたからだ。


「うん。どこで捕れるかな、教えて!」


 一緒に行こうと、手が差し出される。朱里の微笑みは、いつもと変わらなく見えた。

 陽輝の想いを、どう感じたのか。どう受け止めたのか。それは言葉で聞いたけれど、態度に窺えない。


 俺、いつもどんな顔しとったんかな。

 負けじと自然な素振りを意識すれば、あちこち強張ってしまう。彼女に不自然さがないのは、大人だからだろうか。それとも、意識する必要がないから。


「どっちなん」

「ん、なに?」

「なんでもない。もうちょい、下流に行こうや」


 ところどころ小さな中州や瀬はあるが、岸はない。藻で滑りやすい場所を足で探りつつ、陽輝が先を進んだ。

 最初は手を繋いでいたが、互いにバランスが取れなくてすぐに離してしまった。仕方がないものの、割り切れなくもある。


「わあ、こんなとこあったんだねえ」

「うん、俺も初めて見た」


 川中を進むこと、およそ五百メートル。緩やかに左へカーブした先に、その景色はあった。

 関家は、高くそそり立つ崖に遮られた向こう。崖の上が国道のはずだが、深い緑で車の影も見えない。


 突き出した松が、川へ落ちた大きな岩に片膝を乗せている。それ以外にも高低さまざまな木々が崖を覆い、真っ黒な土はしっとりと涼やかだ。

 水は透明な箇所と濃緑の箇所とが隣り合う。張り出した枝の下に水草が揺れ、早瀬と淀みもひと目では見分けが難しい。

 人の手の及ばない自然の川が、こんな身近にあるとは知らなかった。

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