第12話:なかった機会
「結婚……」
「そうなの。ごめんね、内緒にするつもりじゃなかったんだけど。まだなにもかも決まったわけじゃなくて、それからと思って。その――ハルくん頑張ってくれたのに、本当にごめんなさい」
早口で、一度にこれだけを捲し立てる朱里は見たことがない。胸の前で、両手が落ち着かなく揉み合わされる。
眉間には深く深く、渓谷が刻まれた。今にも激流を拵えそうな瞳が、上目遣いに陽輝を見つめた。
「結婚って、なに?」
違う、こんなん聞きたいんじゃない。朱里ちゃんに、おめでとうって言わんと。
勝手にはしゃいで悪かったと謝り、可能ならば冗談にしてしまえばいい。朱里は陽輝を振ったのでなく、バカな従弟に担がれただけだ。
「東京のね、短大に行ってたとき。お付き合いする人ができたの。今年の春までシンガポールでお仕事してて、帰ってきたから」
東京の短大へ、朱里が行っていた時期。陽輝は帰省に同道しなかった。
来ていれば、彼氏のできたことくらい聞けたのだろうか。今となっては、知れたかも分からない。
「北条って人?」
どうもその名前だけ、あちこちに臭いを落としすぎる。どうせ
「うん、そう。北条
「タクちゃん、じゃね」
ゆっくりと、朱里の首が縦に動く。沈んだきり、なかなか浮かび上がってこない。
泣かせてしまったのか。不安と情けなさに、膝が震える。だがこっそりと覗き見ても、唇を噛んでいるだけだった。
「朱里ちゃん、ごめん」
「えっ。いいよ、ハルくんはなにも悪くないよ。あたしがもっと早く、みんなに言っておけば良かったの」
「みんなに?」
なにに謝ったか、陽輝自身も理解していない。朱里の返答で分かったのは、告白のタイミングではないこと。
彼女を想うなら祝福すべきと、当たり前らしき価値観に同調が難しい。
「昭子叔母さんにも次光叔父さんにも、言ってないの。お中元とか来てるから、察してるみたいだけど」
「俺は、その次?」
「え?」
「ううん、ごめん。ちょっと待って。俺、なにが言いたいんじゃろ」
真似をしたつもりはないが、同じようなことを言って俯いた。朱里を見ていては、渦巻いた感情が暴れる一方だ。
こんなに好きじゃのに、俺はみんなの中の一人なんか。
自制が間に合わなければ、言ってしまうところだった。
朱里はなにも悪くない。陽輝の気付くのが遅く、告白するタイミングが最悪だった。それだけのこと。
しかし生まれる順番はどうしようもない。親戚じゅうで最年少の自分には、恋をする機会がなければ知らされるのも最後なのか。
そう思うと、納得や理解が縁遠くなる。
「もし」
「もし?」
仮定を問うのが、怖かった。だから地面に問いかけた。卑怯者と、自分を罵りながら。
「タクちゃんが居なかったら。朱里ちゃん、なんて答えとった?」
「誰ともお付き合いしてなかったら……」
どんな顔をしているだろう。朱里もまだ俯いているのか。それとも惨めな従弟のつむじを、憐れの目で見ているのか。
妄想の彼女でさえ、陽輝を責めはしない。
「それは分かんないよ。ハルくんの気持ちを知って、たぶん最初に『待って』って言うと思う」
「待つって?」
「せめて高校を卒業するくらいかな。そしたらハルくんも、自分で車を運転したりできる。大学へ行くなり、お仕事するなり、自分のこと決められる」
もっともだ。とても正しく、大人の意見で、反論が思いつかない。
たしか舟有へ行くと最初に告げたときの、担任も似たようなことを言った。頑張るのは結構だが、固執せずに様子を見ろと。
「それじゃあ間に合わんじゃん」
「なにに間に合わないの?」
「朱里ちゃんのほうが歳上で、俺が待っとる間にタクちゃんと
基本的に家と学校を往復するだけの高校生と、大人の行動範囲には差がありすぎる。
そう認識する陽輝に、待つ行為が投獄と同じにしか思えない。
「そんなん、ずるいわ。俺、朱里ちゃんが好きなのに。朱里ちゃんも好きになってくれるか、試すチャンスもないとかずるいわ。諦めんかったら、限界はないんじゃなかったん」
「ハルくん――」
視線を感じて、顔を上げた。朱里の目は、まっすぐにこちらを見ている。
顎に拳を当て、瞳が細まり、戸惑いと苦悩は感じられた。けれど陽輝の言い分に、怒りや悲しみはないように思う。
「朱里ちゃん、お願いします。俺にチャンスをください」
「チャンスって、どうやって」
「夏休みの間、俺と付き合って。いや彼女になれいうんじゃなくて、一緒に出かけたりとか」
俺、バカなこと言うとる。
悔し紛れの悪足掻きにしか受け取られまい。提案自体は間違いなく思い付きで、うまく伝わっているかも怪しい。
乾いた喉がネバネバと絡み、咳払いをした。朱里はまだ、陽輝を見据えたまま。じっと動かず、肯定も否定も見せなかった。
彼女は今まで、陽輝をバカにしたことがない。記憶にある限り、励まされたことしかない。
だから、諦められなかった。諦めたくなかった。悪足掻きには違いないが、どう違うかきっと朱里は分かってくれる。
そう願った。
「必ず、俺のほうがいいって思わせるけえ。お願いじゃけ、俺にもチャンスをください」
気をつけをして、頭を下げた。場違いにも、進路指導で習ったおじぎの仕方が浮かんで。
しかし四十五度を維持していると、これで合っている気もした。
もしもこれで断られたら、九十度まで頭を下げよう。朱里がなにか言う前に、ごめんなさいと言って背を向けよう。
それでこの恋は終わりと、覚悟を決めた。
「ハルくん、分かった」
「分かっ、ええ?」
「ハルくんが広島に帰るまで、お付き合いする。でもそれは、結婚の前に想い出を作るため。あたしもハルくんが好きだから、今までしなかったことしてみたい。それだけ」
どこか痛むように、朱里は唇を固く結んだ。力の篭もった視線は、睨まれているとも思えた。
わけの分からないことを言わせて、恨まれたかもしれない。それでも死ぬよりましじゃ。と、無為に諦めずに済んだのを喜ぶ。
「う、うん。それでええよ、俺が頑張るけえ」
「約束よ? あたし、ハルくんにも結婚式に来てほしいんだから」
下弦の三日月と満天の星が、白い腕を浮かび上がらせる。開かれた手の平を、同じに差し出した陽輝の手が包む。
少し強張った不器用な笑みを、これきりにさせると胸に誓った。
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