第8話:祖母の家のにおい
朱里がなかなか戻ってこず、台所とは反対の端にある八畳間にバッグを運んだ。以前は二人居る伯父たちの部屋だったそうで、今は馬屋原家が訪れたときに使っている。
きちんと片付けられて伯父の物はほとんどなく、勉強机だけが行き場なく置かれたままだ。分厚い木板の、長い年月が蜜色に塗った重厚な作り。
その上に、真っ白な紙袋があった。ホールケーキを買ったときのような、底が正方形のものだ。
特にどうとも思わなかったが、なんとなく中を覗く。すると半透明のビニールに包まれた何かがぼんやり透けて見える。
おそらく紙だ。フチが金色になっていて、色紙かなと思った。高さにして二十センチほども積み重なり、かなりの枚数のはず。
「まあ、ええか」
祖母の老人会や伯父の青年団で使う物だろう。ならば陽輝が見ても、面白くもなんともない。
それより、机の背となる襖が気になった。四枚引きの戸を隔てた隣が、元は母の部屋。今は朱里が使っていて、陽輝は入ったことがない。いつもは母と一緒で、女の子の部屋に入るなと言われる。
今は一人だ。正直なところ、開けてみたい欲求はあった。だがダメだと、自制心が押し留める。
葛藤しつつ、これくらい問題ないはずと襖のフチを指でなぞってみた。
「ハルくん、ごめんね時間かかって。スイカがあったから、切ってきたの」
板張りの縁に声も出させず、朱里は部屋の入り口へ立った。びくっと竦めた首を向かせれば、手に大きな盆を抱えている。
逆光で透けた赤い果実が、ごろごろと山盛りに積み重なった。
「なにしてるの?」
「えっ。いや、ええと。玄関が綺麗になっとったけえ、襖なんかも替えるんかなと思って」
「ああ、ハルくんは初めて見たよね。あれ一昨年ね、お父さんが酔って壊しちゃったの」
盆を畳へ直に置き、朱里は座った。陽輝も座るよう招いた手が、内緒話の格好に変わる。
直したのは聞いても、理由までは知らなかった。
「伯父さん、暴れたん?」
「ううん、酔ってるときにストーブを外へ出そうとしたの。お母さんが手伝うって言ったのに、一人でやるって」
「あー。怪我がなくて良かったね」
「ほんと。あー、よね。うん、怪我はなかったよ、ありがと」
スーパーのカットスイカのように、およそ五センチ角に切られている。二つあるフォークの一本を取って、陽輝は遠慮なく口へ運ぶ。
よく冷えて、甘い。咀嚼しながら次を刺し、右手に待機させる。それを見て朱里は微笑み、自身もスイカを口に入れた。
「昭子おばさん、暗くなってから帰るんだね。帰り道、大丈夫かな?」
「そうなん? それは聞いとらんけど、大丈夫じゃと思うよ。初めてでもないし」
「そっか。それでね、おばさんが居るなら夜は焼き肉しようって。今から買いに行くんだけど、ハルくんも来る?」
「うん、行く行く」
陽輝には一口のスイカを、朱里は三口で食べる。その合間に、おでかけの誘いときた。もはやこれはデートでは、と思えば断る理由などない。
赤い山の八割を腹に入れ、皿と盆を台所へ運ぶ。洗うのは朱里がやると言ったが、「これくらい、やらしてや」と格好をつけた。
「じゃあ、おバアちゃんのところで待ってて」
「え? うん」
これから着替えたり化粧でもするのだろうか。朱里が自室へ向かったので、陽輝は言われた通りにプレハブへ行く。
「バアちゃん、元気?」
「おお、陽輝。久しぶりじゃねえ、ウチは元気よね。あんたも、ええがいしょうるかいね」
今年で六十四の祖母だが、奥の椅子をサッと立ち上がる。パンや菓子、調味料などの並んだ棚を抜け、陽輝をぎゅうっと抱き締めた。
いい具合いにやっているか、と。歳の分だけ、方言がきつい。久しぶりでも、きっちり聞き取れたが。
「元気しとるよ」
「ほうね、ほうね。高校行けたいうて聞いとるよ。えかったね、いなげにならにゃええ思うて、せんのう思いよったんよ」
妙なことにならなければいいとは、どんなことか。ああ高校浪人か、と脳内で翻訳作業が忙しい。
そこまで危うく思われたのは心外だが、案じてくれたのはありがたい。
「大丈夫よ。俺、意外と頭が良かったみたいじゃけえ」
「ほうね。そがいに太いことが言えりゃあ、学校も楽しかろうね」
「うん、楽しいよ」
それでようやく離してくれた祖母の頭が、視線の下にあった。半分ほど白くなった髪の真ん中が、薄くなり始めている。
前に会った時は、陽輝のほうが小さかったのに。椅子へ戻る祖母の背中へ、なんと言っていいか言葉が浮かばない。
「ああ、朱里ちゃん来たよ。どっか行くんじゃろ、ジュースでもなんでも持っていきんさい」
「えっ、あっ。ありがと」
振り返ると、サッシに嵌まったガラスの向こうへ、ピンクのハスラーが止まっていた。ハンドルを握るのは、朱里だ。
「朱里ちゃん、運転できるん?」
「短大卒業して、免許取ったの」
えへへと。ハンドルへ頬擦りするように、朱里は笑う。
ダメじゃ、可愛い。
ドアにかけた手が滑り、そのまま卒倒しそうだった。が、堪える。
一つ意外だったのは、アクティブな嗜好の車種ということ。他に選択肢がなかったのかもしれないが。
「ほら、持っていきんさい」
乗り込もうとする陽輝に、祖母が瓶を押し付ける。店の商品をもらうのを遠慮したのだが。
さすがに断れず受け取ると、フルーツ牛乳だった。自分では絶対にしない選択を、懐かしく思う。
「忘れ物ない?」
瓶を渡し、シートベルトを締めるまで、朱里はきっちり見届ける。それでようやく出発と、ゆっくり小さくハンドルが回された。
「朱里、ちょっと待ちんさい! あんた、
加速しようとしたエンジン音に負けない音量で、伯母の声が響く。祖母に手を振るのに、窓は開けていたけれども。
ぺちっと軽く、朱里の手がハンドルを叩いた。「もう」と不満が漏れ、負けない大声で返事がされた。
「もうしたってば!」
それならいい。ということか、伯母の声は返らなかった。外からと中からと、陽輝の耳がきんと鳴る。
「北条さん?」
「ああ、うん。前に言ったっけ? タクちゃんていう――」
「限界のない人」
「そうそう。お中元をくれて、お礼の電話しろってうるさいの」
大人の付き合いはよく分からないが、そういうことなら礼はすべきなのだろう。それももう済んだというなら、なにも問題はない。
ただし朱里は、唇に自分の人さし指を当てた。
「本当は、まだしてないの。後で電話するから、内緒ね」
「う、うん。言わんよ」
「良かった、味方してくれて。だからハルくん好き」
全く大したことでない。しかし内緒とか秘密とかいう言葉は、どうしてこうも胸をときめかすのか。
商店街へ向かう道行きを、宇宙の真理でも知ったように荒い鼻息が治まらなかった。
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