第7話:母の郷里
陽輝の住む広島市街から北へ。安佐動物園の前を過ぎ、広島市を脱出するころになると、景色はいかにも山村といった風情に変わる。
左右へ山肌の駆け上がる隙間に渓流を見下ろしつつ、母の運転するフレアはのろのろと縫い進めた。
「やっぱり空気がおいしいわー。陽輝も深呼吸、深呼吸」
母。
今日は幸いに晴れていて、エアコンさえ効いていれば清々しい。あえて母の感性を否定したくもないが、冷気が失われるのだけは歓迎できない。
「ほうじゃね、生ぬるいけど」
「もう、冷たいねえ。じゃがりこ返して」
母の視線に気付かぬふりで、窓の外を眺め続けた。言うが早いか、死角にあった食料が奪われた。
八月最初の休暇を、なぜか突然に田舎へ行きたいと言った息子のために使ってくれる。頼みもしないのにまずコンビニへ寄って、ソルティライチと菓子も買ってくれる。
そんな母を能美などが言うように、ババアと呼ぶ感覚は陽輝にない。
「その服、カッコええね。買うたん?」
「買わんとないけえね」
「褒めとるんよね。児玉さんにお礼言うといたよ」
「お礼って。俺も一応、働いたんよ」
「分かっとるけど、そういうもんよ」
燈子の父の仕事を三日間手伝い、合計三万円をもらった。事前に聞いたより多いのは、帰宅が遅くなったからと小遣いを別にくれたためだ。
そのうちの一万円を使い、濃紺のワイドパンツと黒いサマージャケットを手に入れた。シーユーにあったマネキンの着ていた物だが。
白いTシャツと合わせた格好が、とても大人っぽく見えた。朱里の隣へ立つには相応しいと。
「これ、伯母さんに渡しといて」
「さっき買ったやつ? こんなん要るん」
「お母さんの実家でも、今おバアちゃんのお世話してくれとるのは、伯母さんじゃけえ」
「ふーん」
コンビニで買った贈答用のゼリーの詰め合わせは、三千円くらいだったか。手土産の理屈は分かるが母には親元、陽輝には祖母の家。気を遣いすぎと思う。
「お母さんは十三日の夜にならんと帰れんけえ。みんなに迷惑かけんのよ」
「かけたことないじゃろ」
「はいはい、そうですね。あんたが朱里ちゃんみたいにいい子じゃったら、本気で言えるんじゃけど」
今日は夕方に自宅へ戻る母と、再会は九日後。その時に朱里との交際を伝えれば、驚くに違いない。
なんと言われるか妄想しかけて、いやいやと思い直す。付き合い始めてすぐに親へ報告するなんて、いかにも子どもだ。
それでもいつか、恋人として紹介する日は来るはず。その時を思い浮かべると、幾らでもイメージが膨らんでいく。
『秘密のフレーバー……』
スピーカーから、母のお気に入りが繰り返し聞こえる。景色は玉露をひっくり返したような山々と、ラムネを透かしたみたいな濃い色の空。
これから。特に朱里との時間に、期待以外の気持ちを持つことが叶わない。
ワクワクと弾む心持ちとは、今の陽輝以外にあり得まい。それくらいに感じられて、似たような風景ばかりの道中も、あっという間だった。
国道沿いを流れていた江の川が、一本の県道と同じ方向へ逸れていく。その先に母の実家であり、朱里の住む関家がある。
「はー、着いた」
「お疲れさん」
氷も溶けて久しいカフェラテを、母は音を立てて吸い込む。先に車を降りた陽輝は、荷物でパンパンのバッグをハッチバックから取り出した。
県道の脇へすぐ、自然石で作られた階段が繋がる。およそ十センチずつの高さを、ゆったりと五段。上がった先に飛び石が七つ。黒い玉砂利の海に、茶色い板壁の日本家屋が悠然と浮かぶ。
「あっ、やっぱりハルくん!」
何度見ても迫力のある表構えの隣に、ブリキの看板を掲げたプレハブがあった。赤いコーラのマークと並んで、関商店と書かれている。
時代錯誤な情緒にぴったりな、カラカラと陳腐な音を立ててサッシが開いた。そこから聞こえたのは、陽輝の待ち望んだ声だ。
朱里はプレハブの中を振り返り、なにごとか言ってこちらへ駆け出す。
見れば足下は、便所スリッパと揶揄されるビニールのつっかけ。色褪せたデニムのロングスカートも相俟って、転ばないかハラハラする。
「はあ、ふう。いらっしゃい!」
三十歩足らずの距離に息を切らし、朱里は俯いた。会うなり抱き締めてくれるとか、できすぎた展開は期待していなかったけれど。
大丈夫かと声をかけつつ、朱里の息が整うのを待つ。そしてようやく、目と目が合った。
「来たよ、朱里ちゃん。ご厄介になります」
「うん、ゆっくりして。あ、昭子おばさんもいらっしゃい」
「朱里ちゃん久しぶり。去年はありがとね、おかげでこの子も高校に行けたわいね」
「そんな。ハルくん、頑張ってましたよ」
「そう? 急に舟有とか、寝ぼけとるかと思ったわ」
強い日差しを手で遮りながら、母も車を降りた。途端、進学の礼を先に言われてしまった。
いや春の時点で、電話で伝えてはいる。しかし昨年以来、初めて顔を合わせるのだ。直接に言うのは、まず自分が最初だと思っていたのに。
肩掛けのベルトしかないバッグが、肩に食い込んで痛む。ため息混じりの鼻息を荒く吐いて、位置をずらした。
「あっ、ハルくん重いね。早く家に入ろ」
「う、うん」
すぐに朱里が察して、本宅の玄関へ足を向けた。このちょっとした違いが、朱里と母を別の生き物と感じさせる。人それぞれと分かっていても、従姉を特別と考えたい。
しかし朱里も、四歩で足を止めることになった。向かう玄関が開いて、伯母が飛び出してきたからだ。
「あーっ、昭子ちゃん!」
「あらお義姉さん!」
二人の母は、互いに駆け寄る。追い越された勢いで、陽輝は荷物に振り回されそうになった。
朱里の母、
「もうお母さん、通れないでしょ。ハルくん、荷物が重いんだから!」
「なんね、ちょっとくらい。男の子なんじゃけえ、そのくらい平気よね。ねえ?」
「え。ええっと、まあ」
「ほら、みんさい。ハルくん、志望の学校へ行けてえかったねえ。楽しい?」
「まだ慣れんけど、楽しいよ」
まったく本気ではなかろうが、朱里の怒りに類する感情を見るのは初めてな気がした。さすがに勘違いと思うけれど。
なんにせよ、陽輝のために怒ってみせてくれたのだ。それだけでバッグの重さなど、実質ゼロになる。
「いいよハルくん、砂利を踏んで」
「え、いいん?」
「いいよいいよ」
磨かれて宝石のように光る玉砂利を、朱里はギュッギュッと踏みつけて行った。満江も「こら」と言うものの、それほど気にした風でない。
「朱里ちゃん待って」
立ち塞がる二人を躱すため、陽輝も一歩だけ砂利を踏んだ。気まずさに、朱里へのみ声を向けて。
伯母はそれにはなにも言わなかった。
何年か前に作り直して真新しい玄関の引き戸を、朱里が開けて待ってくれた。飛び込むと、土間独特の土の臭い。やはり新しい土壁が、かすかに光る。
座るのにちょうど良い高さの框へバッグを置くと、圧迫されていた肩から一気に涼しくなった。
「ハルくん、なにか飲む? お茶かサイダーか、リンゴジュースならあるけど」
「お、お茶」
「お茶でいいの? はーい」
朱里はつっかけを揃えることもせず、ぱたぱたと台所へ通じる縁を小走りに去った。陽輝の家へ泊まったときには、なにをしても音を立てない印象だったのに。
でもこれが朱里ちゃんの普段なんじゃ。可愛いわ。
上から目線とは自覚している。が、正直な感想はそうだ。
「なんか前より狭くなったような――」
朱里のことを置いて、祖母の家に来るのも久しぶりという感覚になる。新しくなったのは扉と壁だけで、間取りが変わったわけでもないのに。
四、五年で変わったのは、陽輝の背丈だ。以前は扉の脇の靴箱を、見上げることしかできなかった。
「こんなんあったっけ?」
靴箱の上は、お土産ものの人形や鈴が飾られる。祖母が暇にあかして作った、折り紙の傘や鞠なども。
そういう細々したほとんどには、見覚えがあった。しかし中に、知らない上に場違いと思える物が、たった一つ。
福という字が逆さになって書かれた、置き物。文鎮だろうか。中華料理店で見かけるような代物が、どうにも浮いて見える。
「近所の人が海外旅行に行ったんかな」
やはりお土産に違いない。陽輝はそう考え、それ以上気に留めなかった。
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