第6話:やるしかない
燈子に言われた仕事の日は、終業式のさっそく翌日だった。迎えの約束は朝八時だったが、緊張のせいか七時に目覚めた。
洗顔にシェーバーも使わない男子の用意など、着替えも含めて十分で終わる。汚れてもいい服と聞いていて、中学校の体操服を選んだ。
約束の時間、五分前。アパートの前で待っていると燈子の父、児玉
「いや悪いな陽輝くん、朝早くから手伝わせて」
「いえ全然」
ほぼ目線の高さのドアノブに戸惑い、どうにか高い座席によじ登った。運転席の晃はやはり社名の入ったツナギで、大きなハンドルを軽快に回し始める。
「最近どうよ? なんだかすっかり話す機会もなくなっちゃったな。学校は楽しいか?」
「あ、はい。ええと燈子さんと同じクラスで」
「燈子さん? もう尻に敷かれてるのか。まあまあ、久方ぶりで分かんないよな。小父さんは相変わらずだから、ゆっくり慣れてくれや」
「あ、はい」
丁寧に剃られた青い顎がよく動く。言う通り久しぶりで忘れていたが、晃はかなりの話好きだった。
それからもう一つ、広島弁でないのにも気付いた。長く会社を経営すると、そうもなるのだろうか。
「今日は俺、なにを」
「お。今日はな、建築現場に流しを運ぶ。いつもはうちの若いのを付き合わすんだが、特需ってやつかね。引っ越しとか他の仕事も立て込んで、人が足らなくなってしまったよ」
「流し?」
作業の説明をしてほしかったのだが、余計な注釈のほうが多い。唯一聞こえた流しというのも、意味が分からなかった。
トラックで水を流す。はずはないし、ほかに思いついたのは、そうめん流しくらいだ。しかし今から竹を採りに行くでもないだろう。
「うん、流しだ。ああそうだ、そこの箱に手袋がサイズ違いで入ってるから、合うのを探しといて。梱包が滑るからさ、うっかり足に落としたら痛いじゃすまないし」
「箱ですか。あ、ありました」
助手席の背もたれに隠れて、日焼けで真っ白のダンボール箱があった。蓋はざっくり切り取られ、物入れに使っているようだ。
二十箱入りのタバコの包みと一緒に、見慣れない緑色の手袋がたくさん入っていた。
「いやいや、新品が入ってるだろ。ビニールに入ったやつ、使っていいから」
「え、これだとダメなんです? 滑り止めが効かんとか」
コーヒーでも溢したようなシミのある、いかにも使い古されたのを選んだ。失礼ながら臭いを嗅いでみると、洗ってはいるようだったから。
「いやダメじゃないけど。綺麗なのを使いなよ」
「そんな小父さん、気ぃ使わんでください。たった三日のために、新品を使うのもったいないでしょ。俺、働きに来たんで」
燈子との約束が、そんな言葉を吐かせた。稼いだお金は、朱里のために使うのだ。真面目に役目をこなし、自信を持って給料を受け取りたい。
「――ほうか。じゃあハル、こき
「うん、お願いします」
アパートから二十分少々で、広島市西端の倉庫街に着いた。荷物の積み込みが、陽輝の初任務らしい。
「流しって、台所の流しなんじゃ」
「そう言うたろ?」
「え、うん」
正確にはシステムキッチンの部材を、荷台に収めていく。食器棚や吊り棚のように直方体の物だけでなく、シンクや蛇口周りのように複雑な物もある。
「これをのう。降ろすのと逆に、どうにか積まにゃいけんのよ」
「どうにかって、積める量じゃないん?」
「それならええんじゃけどの」
倉庫のリフト係が、パレットに載った荷物を次々とトラックの後ろへ運ぶ。話す間に一つでも積めと急かすように。
実際に時間の猶予もそれほどないのだろう。晃は伝票をバインダーに挟み、手早く捲った。
「よし、行くで。まずこのパレットからの」
「はいっ」
想像したほど重い物はなかった。だが四トン車のコンテナの奥まで運び、また戻って持ち上げるという繰り返しが握力を奪っていく。
聞いた通り梱包のダンボールには、粉を吹いたような埃が付いてよく滑る。借りた手袋に滑り止めがなければ、作業にならなかっただろう。
「さっきのの上に半分引っ掛けて置いてや」
「はいっ」
それでも陽輝は楽なものだ。晃は立体のジグソーパズルのごとく、載せる場所を指示してくれる。どこへ置くのか、最初から分かっているように。
「よっしゃ、全部積めたの。行こうで」
「はいっ」
積み込みには三十分かからなかった。たったそれだけなのに、もう随分と「はい」としか言ってない気がする。
助手席へ乗り込むと、シートに触れた背中がじっとりと気持ち悪い。
「
「はあ」
「三十センチ角じゃけえ、みかん箱くらいか。それが、一才いう単位になる。この車のコンテナが、だいたい九百才よ」
「ええと、容積の話じゃね」
「そうそう。さすが」
走り始めた途端、なんの話かと思った。だが順に記憶を手繰ると、積荷の量の話をしたと思い出した。
「ほいで荷物も同じに数える。さっき積んだ食器棚一つで、十二才くらい。それを足し算して、何トンのコンテナに載るかいうて考えるんよ」
「ほうなんじゃ、綿密じゃね」
という会話で、一旦は納得した。しかしなにか引っかかる。
トラックのコンテナの空き容積と、荷物の占める容積。それが見合うように、きちんと計算してあって――。
「あっ」
「分かったかいの」
「載せる順番まで決められとって、そんなん載るとは限らんじゃん」
「そういうことよ。他の荷を上に載せたらいけん、いうのもあるしの」
同じ形のダンボール箱を重ねるなら、およそ計算通りにいくだろう。しかしこの荷は、同じ形のほうが珍しい。
例えば同じ容積の箱と球があって、一方をもう一方に入れようとしても不可能だ。球は箱の面からはみ出すし、箱は球から全ての角を突き出してしまう。
そうならないよう、正解がないかもしれないパズルを完成させなければ積み込めない。
「指定時間に荷降ろしできりゃあ、取りに戻ってもええんよ。でもそのロスは、こっちの損になる。間に合わんで叱られるんもの」
「なんか、理不尽なね」
「まあのう。じゃけど金を貰う側が『こりゃあできん』言い出したら、払う側は際限なくなるけえ」
その理屈も分かる。一度で運べるものを二度に分けて、料金も二倍だと言われては困ってしまう。
「……仕事って大変じゃね」
「お。それが分かりゃあ、今日の日当分にはなったの。働くいうのは、目の前の仕事を片付けりゃええ、いうもんじゃないんよ」
最後の言葉で、なぜ晃がこんな話をしたのか分かった気がする。
働きに来たなどと陽輝が生意気を言ったのを喜び、きっと意味を教えてくれたのだ。
「さあ着いたで。こっからが本番じゃけえの」
「ここって……」
新しいキッチンを入れる建築現場と聞いたので、遠く郊外まで行くものと思っていた。だがやって来たのは、陽輝の家からも近いビル群のただ中。
たしかに目的のビルは足場と遮音シートに囲われ、なにかしら工事をしているのは間違いなさそうだが。
「全面リフォームいうやつよ。壁の吹き付けやらやりよるけえ、中も狭いで」
言いつつ晃は運転席から降りてコンテナを開け、手前の荷に手をかけた。もちろん反対側を持つのは、陽輝の役目だ。
慌てて手袋を嵌め、両手に力をこめる。晃は迷うことなく、ビルの中へ入っていった。
「うわ、シンナーの臭いが」
「ペンキ塗りたてじゃの」
床にも養生のビニールシートが貼られ、左右からハシゴや足場の鉄骨が突き出す。網の目のように配置されたレーザーセンサーを掻い潜る、スパイ映画を連想した。
「ええ、こんなとこ通るん?」
「通すんよ」
長い物は二メートル以上もある部材を、通るかではなく通す。やれるかどうかでなく、やるしかない。荷を積むのと同じこと。
しかも工事中ならば、エレベーターなども使えない。たしかこのビルは十四、五階建てだったはず。陽輝は今日という日の過酷さを想像して、唾を飲み込んだ。
最初の現場を済ませた後、二ヶ所を回って全ての荷がなくなった。アパートの前に降ろしてもらったのは、午後八時を過ぎていた。
「ほんま助かったわ、お疲れさん。これ今日の分の」
「あ――ありがとうございます」
体力の底と感じたところから、さらに倍も掘り起こした感覚だった。運転席の窓から出される茶封筒を受け取るのにも、腕がなかなか上がらない。
「じゃあ明日も同じ時間で頼むけえ」
「はい、待っときます」
いやもう今日だけで勘弁してくれ。一瞬そうも思ったが、声にするだけの力が残っていない。
晃はトラックのギヤを切り替え、ゆっくりと進め始める。
小父さん、これから会社に戻るんか。
陽輝と晃の労力は同じでない。積み下ろしや運び方に頭を使わねばならなかったし、階段などでは負荷のかかるほうへ行ってくれた。
それなのにまだ、晃の仕事は終わらない。午後九時を過ぎても車の戻っていなかった、駐車場の光景が蘇る。
「明日も頑張るわ」
背面の見えたコンテナに、ちょこんと頭を下げた。なぜだかそうしたくなった。
そのせいではなかろうが、ぎゅぎゅっとつんのめるようにしてトラックは止まる。
「小父さん、どうかしたん?」
助手席へ忘れ物でもしただろうか。ポケットに触れてみながら、運転席の下へ駆け寄る。
「あののう、一つ無理を頼まれてほしいんじゃけど。来月の二十二日も手伝うてもらえんか?」
燈子から聞いて請け負ったのは、七月下旬の今日から三日間。それとは別の頼みらしい。
今日だけでも、疲労困憊という言葉の意味を初めて体感した。既に約束しているのはともかく、これ以上はやめておくべきだ。
なにより八月は、朱里のために使いたい。
「うん、ええよ小父さん。八月二十二日じゃね」
「ほんまか、助かるわ! じゃあ、ゆっくり休みんさい」
今度こそ走り去ったトラックを見送り、角を折れて見えなくなったところで「ええ?」と自分に驚く。
「まあ、ええか」
お盆を過ぎ、夏休みも残り数日という日だ。さすがにそのころには、告白を終えて交際が始まっている。
それなら焦る必要はない。見上げた空に丸い月が見えて、朱里もその通りと言ってくれている気がした。
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