第5話:隣のベランダ

 夜の川面を舐めた涼しい風が、レースのカーテンを踊らすのをやめた。

 夕刻までその土手で、友人たちと求人誌を読んでいた。コンビニで買った菓子とジュースで騒いでいただけ、とも言うが。


 時計を見ると、午後九時。そろそろ風の凪ぐ時間だ。

 部屋にテレビもパソコンもスマホもない陽輝には、暇つぶしのレパートリーが少ない。今もベッドへ仰向けに、アルバイト探しも六周目だった。


「あっつ――」


 風さえあれば、夜はエアコンも要らない。しかし凪いでしまうと、途端にサウナと化す。

 扇風機を弱から強に替えたところで、空気の暖まるさまをより身近に感じられるだけだ。


 ベランダなら、まだましかな。

 そう思い、網戸を開けた。安いサッシが、キュキュッと耳障りな悲鳴を上げる。


「ふう」


 良かった。手すりの先には、そよ風程度の涼が残っている。銀色に腕を乗せると、これも思いのほか冷たくて気持ちがいい。

 上体を乗り出し、体重をかける。土手を走る車はまばらで、灯りを映した天満川がきらきらと光っていた。


「俺が言ったんじゃないのに」


 横目に、隣の家のベランダが見える。燈子の「最低」という声が、たった今のように耳へ響く。

 まずいと感じて逃げたものの、あらためて考えると、なにに対して言われたのやら。

 能美の言った、女の子の居るところがいいという部分とは思う。そういう発言を女子は嫌うだろうと、これは推測だ。


「なんでお前にそんなこと言われんといけんのや」


 初対面がどうだったかも、記憶にない相手。遊びに行くとなれば、互いに必ず誘い合った。

 家族旅行も何度か、合同で行ったことがある。どれも小学校の四、五年くらいまでの想い出。


 特にケンカでもしたわけでない。男の子と女の子で遊び方が変わり、一緒に居る相手が代わった。

 中学に入り、幼馴染と知ったクラスメイトに、一度だけ冷やかされた。それから学校で話すことを、避けるようになった。


 嫌いになる要素はない。反対に、やっぱり仲良くしなきゃと思い立つ理由もない。同じアパートに、歳の近いのは他にも居る。

 それをどうして、最低などと見下されねばならないのか。


「涼しい?」


 問われて、背に寒気が走った。声の主は、非難を向けた当人だ。

 どこまでが頭へ浮かべたことで、実際に呟いたのはどうだったか。思い返しても、たしかなところがない。


「なんで答えんの」


 防火壁の向こうから、サッシの軋む音がした。あちらも網戸だけで、外の風を入れていたらしい。


「ま、まあまあ」

「もう分かった」


 半袖のボーダーから伸びた腕が、陽輝と同じに手すりへ置かれた。雑に後頭部で纏められた髪が、それでも腋下辺りまで垂れ下がる。

 まじまじとした視線に気付いた燈子は、正面を見たまま「なに?」と機嫌が悪そうだ。


「ええっと」

「彼女、ほしいん?」

「ええ?」

「言ってたじゃん」

「あれは能美だけだって」

「へえ」


 矢継ぎ早の問い。せっかく答えたのに、最後の「へえ」は天満川より凪いでいた。


「まあ作ろうと思えば作れるんじゃない? 千人くらいに死ぬ気で頼めば、一人くらいはもしかしたら」

「そこまでか」


 苛立ちの原因は知らないが、どうやらストレス解消のカモにされている。

 そっちがその気ならと、陽輝も燈子から視線を外し、なにもない川の一点を見据えた。


「なんのバイトがいいかって話をしとっただけよ。ジェニーズか知らんけど、芸能人の話より建設的じゃろ」


 女子たちの話を聞いてはいなかったが、どうせアイドルかファッションのどちらかだ。ときおり黄色い声の上がっていた気がするので、おそらくと堪で皮肉を言った。


「なっ。い、いいじゃん。それこそウチが持ってったんじゃないし」

「でも誰推しとか言いよったんじゃろ」

「ウチは聞きよっただけ。そんなん居らんって」

「へえ」


 平静を装っているが、早口になった。そこへまんまと、冷めた声を返す。

 ただ、やり返したのはいいが、次は怒りの声が来るはずだ。悪くすれば、平手くらい飛んでくるかもしれない。幼いころ、泥だらけになる理由は燈子だった。


 悔しがる表情を見届けるため、腕で顔を庇いつつ覗き込む。

 膨れて睨みつける燈子がそこに居ると思った。けれど居たのは、目を伏せて自分の腕に顎を預ける悲しげな女の子だ。


「なんでそんなん言うん」

「えっ、だって。トーコが、ええと……ごめん」


 鼻をすする音がして、燈子は陽輝から顔を背けた。


「泣いて――」


 こんなことで泣くんか。

 悪かったと、胸が重くなる。昔は言いたいことを言って、殴り合いさえしたのに。今はたったこれだけで、会話が成立しなくなるのか。


 幼馴染は女の子だ。その事実をもちろん知っているけれど、本当の意味で知ったのは初めてかもしれない。

 苦しい息を押して、なにか言わなければと口を開いた。


「トーコ。あの、ごめん。冗談のつもりじゃったんじゃけど。そんなに傷付くと思わんかった」


 相手の好みを馬鹿にして、懸命な弁明を冷たくあしらう。たしかに酷い態度だった。冗談と受け取られなくとも仕方がない。

 直ちに価値観を改め、頭を下げた。だが燈子はこちらを向いてくれない。小さく震え、泣き声を抑えている。


「と、トーコ。謝りに行くけえ。悪いけど、玄関開けて」

「く、くくっ」

「ん?」

「あはっ、あはははは」

「ええぇ」


 近所迷惑も顧みず、燈子は大声で笑う。手すりを叩く音と振動が、駆け出す格好の陽輝にも伝わった。


「嘘。ウチがこんなんで泣くわけないじゃろ」

「心配して損した」

「やっぱりハルは、扱いやすくてええわ」

「なんなんや、もう」


 巨大なため息が口から溢れ、どっと疲れた。このまま居ても、もてあそばれるだけだろう。陽輝はのろのろと部屋に戻ろうとする。


「ちょっ、待ちんさいや」

「なに? まだなんかあるん」

「アルバイト、探しとるんじゃろ。教えてあげよう思ったのに」

「トーコが?」


 引き止めるのが声だけなら、足を止めなかった。だが燈子は身を乗り出し、腕をこちらのベランダにまで振って伸ばした。

 その態度に免じて、からかわれたのは保留にしておく。


「お父さんに聞いたらね、人数の足らん日が三日あるんじゃって。一日、八千円。どう?」

「えっ、ほんまに? やるやる!」


 高校生のアルバイトとしては破格の日当に、断る選択肢はない。二つ返事で答えたものの、燈子がいつ問い合わせたのか疑問に思う。

 見下ろすと、建物と土手の間は駐車場になっている。燈子の父親の車は、まだ戻っていない。


「わざわざ聞いてくれたんか」

「そっ。えっ? そんなわけないじゃん、たまたまよ」

「たまたま?」

「そ、そう。たまたまお父さんから電話があって、ついでに聞いただけ」


 家族思いの小父さんは、仕事中も毎日の連絡を欠かさない。とは聞いていないが、納得できる話だ。

 どうであれ、燈子が気を利かせてくれた事実に変わりはない。


「そか。助かるわ、ありがと」

「いいよ。でも、条件がある」

「ん?」


 手すりに戻ると、鼻先へ手が突き出された。石けんの香りのするその手には、人さし指だけが立つ。


「な、なに?」

「アルバイトも仕事よ。サボって当たり前みたいなこと言うたの、佐伯って分かっとるけど。ハルがそんなんしたら、許さんけえね」


 ああ、と察した。出された指は、この指とまれだ。燈子は小さいころ、遊ぶ仲間を集めるためだけでなく、約束を交わすのにも同じことをした。


「大丈夫じゃって」

「うん。約束するなら、お父さんに言うとく」


 きゅっと、少し強めに指を握った。すると燈子の左手が、ぽんぽんと叩く。どうやらそれで、最低と言われたのはなかったことのようだ。

 久しぶりに間近で見る燈子の笑顔が、そう告げていた。

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