第3話:諦めない

 朱里が訪れるのは、八月の最初と決まった。迎えに出たバス停で、父がプリントアウトしてくれた写真を眺める。

 陽輝を中心に、父と母と祖母。端に朱里が、やけに上体を傾けて写った。きっと顔だけを画角に入れようとしたのだ。撮ったものを見返すなど恥ずかしくて、朱里がそんなことをしているとは知らなかった。


 写真などなくとも、朱里の顔は覚えている。けれどもじっと見つめ、バスの来る方向に姿を探す。写真を見て、行き過ぎる車の列を見る。写真を見て――と、際限なく繰り返した。


「去年も行けば良かった」


 母の帰省に同道しなかったのを悔やむ。行ってなにがあるでもないけれど、直に朱里を見る機会を逸したのだから。その時の自分を、どうにも理解できない。


 それから視線を三往復ほどして、目当てのバスが見えた。想定より行き過ぎて、乗車口を目の前に止まる。すぐさま降り口の前へ走った。

 スモークのかかった窓越しに、明らかな女性のシルエットが見える。バスの呆れた鼻息が足元を濯ぎ、扉が折り畳まれて開く。


「あっ、ハルくん!」


 運賃箱へ小銭を落としていた女性が、陽輝に顔を向けて声を上げた。返事をするべきだったろうが、声が出ない。おずおずと小さく手を挙げて答える。


 袖のない肩が、白いカーディガンを透かして見えた。濃い水色のスカートと、空色のキャリーバッグ。彼女自身が動くたび風の巻くたびに、薄い布地がふわりと舞う。

 母が使う通販のカタログにでも載っていそうな洒落た格好の朱里は、白いサンダルをぴょんと跳ねさせてバスから降りた。


「うわあ、こっちは暑いねえ。ハルくん、大丈夫?」

「だ、大丈夫」

「なら良かった。迎えに来てくれてありがとね」


 思わずといった風に、朱里は鼻と口を手で塞ぐ。無理もない、過ぎ去る車がアスファルトの熱気を攪拌し続けている。広島市の中心部へも気軽に自転車で行ける距離だ、台数も多い。

 陽輝は朱里を、広い歩道の建物側へ押しやった。


 バス停から家までは、およそ二百メートル。一歩の距離を空け、並んで歩く。田舎から川辺の風を持参したように、ほのかな野花の匂いのする気がした。

 アパートの階段を昇るのに、荷物を持つべきか。悩む間にタイミングを逃し、朱里は先を行く。と、向かう二階で玄関の鉄扉が開く音がした。


「こんにちは」

「こんにちは」


 狭い階段の先を覗き見る前に、出てきた誰かへ朱里が挨拶をする。同じ言葉で返された声は、燈子だ。道を空けた朱里とすれ違い、陽輝の二段上で見下ろしてくる。


「太鼓の皮……」

「なんて?」

「なんでもない、どっか行くのか」

「ちょっとね」


 五分丈のシャツに七分丈のパンツ。グレーのモノトーンのそれは、おそらく寝間着と見える。手になにを持つでもなく、燈子は足早に階段を下りようとした。


「ハルくんのお友だち?」

「え、うん。隣の家」

「隣の家の児玉です」


 朱里の声に、燈子は急ブレーキで止まった。五段下から見上げ、ぺこりと頭を下げる。


「ええっと、燈子ちゃんって言うの?」

「そうです。お姉さんは?」

「あたしはハルくんのいとこで、関朱里と言います。よろしくね」

「いとこ、ですか。なんだ」

「うん?」


 朱里は児玉家の表札を見て、燈子の名を言い当てた。せっかく親しげに話してくれているのに、燈子は「いえ、ごゆっくり」と姿を消す。


「ずっとお隣なの?」

「うん、俺もトーコもこのアパートで生まれたから」

「へえぇ、幼馴染だあ。そういうの、いいねえ」

「そう?」


 どこがいいのかと、かなり本気で聞き返した。公園でお漏らしをしたとか、近所のスーパーで迷子になって泣きじゃくったとか。お互いに恥ずかしい記憶ばかり共有する燈子は、朱里よりも扱いに悩む。

 しかし答えは「そう思うよ」と微笑まれただけだ。


 それからの夏休みを、朱里と特段のなにをもしなかった。町内の夏祭りがあったし、路面電車で花火大会にも行けたのに。

 受験のために来てもらったのだから、それは当たり前だ。両親もこの年は帰省しなかった。

 せいぜいが気分転換に行った、スーパーへの買い物くらいか。「槍が降る」と母に言われたけれど、聞こえないふりをした。


 朝起きれば「おはよう」と朱里が食卓に居る。パートに出る母の代わりに、朱里が昼食を作ってくれる。食材を買い出し、皮むき程度に手伝った夕食を一緒に食べる。

 陽輝の家の日常に、朱里が入り込んだ。これは映画に行くとか海に出かけるとかよりも、極めて希少な出来事だろう。しかもその合間には、ずっと二人で顔を突き合わせている。


「親戚を通り越して、家族って感じ。ずっと続かんかな」


 一週間が経った夜、暗いベッドで呟いた。眠るまでの時間も、朱里のことしか頭に浮かばなくなった。

 家族のよう、ではあっても期限がある。夏休み中だけという約束で、それを過ぎれば朱里は田舎へ戻らねばならない。毎夜数えるたびに、折る指が減っていく。


「あっ、そうか。いとこなら――あははっ」


 結婚という言葉を口にするのは、あまりに大それて気恥ずかしい。だがあまりに単純でありふれた解決策に、自分を笑う。思いつくのに、時間のかかり過ぎたことを。


「でもそれなら、絶対合格せんと」


 どこでもいいなどと、とんでもない。今さらランクを落とすのも格好悪い。逆に難関の舟有高校へ入学できれば。そして高校生ともなれば、正真正銘の大人だ。

 朱里に告白するのを誰に気兼ねする必要もない、と陽輝は信じて疑わなかった。


 おかげで、だろう。陽輝の学力は数日ごとに上がった。朱里が用意したのとは別に、レベルの高い参考書を追加したほど。

 その内容もひと通り呑み込んだころ、朱里が田舎へ戻る日が来た。


「ハルくん凄いよ。あたしなんか、全然要らなかったくらいだよ」

「そんなことないって。朱里ちゃんが教えてくれんかったら、自分で勉強する方法も分からんかったよ」

「舟有は難しいと思うけど、このままやればきっと合格できるよ」


 やって来たのとは反対のバス停で、朱里は陽輝の両手を握る。しかもそれを額に押し付け「頑張れ、頑張れ」と、おまじないめいたことまでしてくれた。


「あ、朱里ちゃん。恥ずかしいって」

「ええ、そう? ハルくんなら大丈夫と思うけど、一応ね」


 力任せに引き剥がしたりはしない。本心では、ずっと触れていてほしかった。

 朱里もどう思うのか、バスが来るまで握ったままでいる。


「じゃあ、またね。次は来年の夏休みに会えるかな」

「うん。必ず行く」


 正月も受験勉強に勤しめば、朱里の言う通りだが仕方ない。先の未来を思えば、機会を逸したとも数えない。

 乗車口が開く数秒も、手を離すのが惜しかった。


「もう、ハルくん。あたし行かなきゃ」

「うん、ごめん」

「あ、そうだ。最後にこれだけ」

「んん?」


 バスのステップに乗り、整理券を取るのに手が離された。そこで朱里は振り返り、握り拳を作って見せる。


「自分の限界ってね、諦めることなんだって。だから、ここまでだって諦めない限り、限界なんかないんだって。あたしの――えっと、タクちゃんって友だちが言ってた」

「分かった。俺、絶対に諦めんよ」


 陽輝の声と、扉の閉まる音が重なった。だがきっと聞こえたはずだ。他でもない朱里との未来に誓った言葉なのだから。

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