第2話:志望の動機

 陽輝自身はっきりと気持ちに気付いたのは、つい最近だった。

 発端は夏休みの初日、昼間からベッドでごろごろしていたところに、ノックもせずドアを開けた母。前置きもなく、突然に言われた。


「あんた、どこの高校に行くん」

「え、なに。どこって、決めとらんよ。行けるとこに行く」

「いや、ええんよ。どこでもええけど、私らも心づもりをしとかんとね。お金のかかることじゃけえ」


 進路について問われたのは初めてだ。中身はよくある話だろう。私立高校に行くことも無理ではないが、できれば公立へ行けと。

 ついでに言うなら通うのにバスや電車が必要か、予算を見積もっておきたいと母は言った。


「私のころと、また事情が違うんじゃろうね。あんたの成績じゃと、どこらへんに行けるん?」

「いや知らんって。先生とそういう話するんは、二学期になってからじゃろ」

「そりゃそうかもしれんけど、自分のことよ」


 机の棚に、学校から配られた資料はある。と言ってもA4用紙が二、三枚のものだが。最初に目を通したとき、昨年度の入試倍率やら偏差値が表になっていたと思う。

 その数字が自分の受験にどんな影響を与えるのか考えるのも面倒で、それきり放置している。


「まだ見てないけえ知らんよ。よっぽど難しいとこじゃなかったら、どこでも行けるじゃろ」


 期末テストの順位で言えば、陽輝の成績は中の中と考えられる。具体的にはクラス三十五人中の十九位で、中間テストは十七位だった。

 つまり世間並。平凡な位置にあるわけで、誰もが高校進学して当たり前という空気の中、当然に平凡な進学ができるはずだ。と即興の弁明が頭に浮かぶ。


「あんたねえ、世の中そんな甘いもんじゃないんよ。燈子とうこちゃんは去年から、舟有ふなありに決めとったよ」

「分かっとるって、ちゃんと考えとくけえ」


 アパートの同じ階、同じ階段を使う隣の家の幼馴染。児玉こだま燈子がどこへ進学するか、陽輝のそれとは関係がない。

 だのに見習えと言われたのが、少々腹立たしかった。寝転んだまま机の上へ手を伸ばし、たまたま触れた教科書を広げて見る。


「はあ、困ったねえ」


 普段の両親は、勉強しろなどと干渉してこない。おそらく昨夜、父と夫婦間での会議が行われたのだ。

 きちんと考えて言っているのは分かるし、ありがたいことだろうと思うようにしている。


 ただ、そっちは納得ずくでもこっちは寝耳に水だと言いたかった。じゃあまた明日にでもとこの場を終わればいいものを、母はどこかへ電話をかけ始める。


「あ、お義姉さん。私です、最近どうですか。え、母さんが? あはは、お義姉さんに甘えとるんでしょ。お世話になります」

「なんでそこで世間話しとるん」


 これみよがしに、陽輝には与えられていないスマホで実家と通話し始めた。息子の部屋の入り口で。

 抗議の声も、電話中は静かにと言いたげな視線で封殺される。


「それでね、朱里ちゃん居りますか。そう、うちの子が勉強嫌いで。朱里ちゃん大学行ったでしょう、ちょっと見てやってもらえんかね思って」


 勉強したくないと言ったことはない。まれに宿題が遅れるのも含め、人並みにはやっている。嘘を吐いてまで、子の恥を吹聴するなと言いたかった。

 しかし直後に出た名前が、意識を別方向に変えさせる。


「大学? 東京の短大、言うとらんかったっけ」


 呟いてみたが、それは大した問題でない。母方の親戚に、大学と名の付く場所へ行った人間が他に居なかった。

 だから母が塾などを頼るまいと思えば、候補者は一人ということになる。


「あら朱里ちゃん。まあ久しぶり、元気にしとる?」


 朱里は卒業してすぐ、母の田舎へ戻ったはずだ。つまり母は今年の正月や、去年のお盆に会っている。

 陽輝は帰省のたびに付き合う必要はないなどと、理由のない虚勢で同行しなかった。


「うん、そうなんよ。お礼はしますから、お願いできんかね。え、陽輝? ちょっと待ってね」


 母は顔からスマホを離し、部屋に入ってくる。突き出されたスマホを取るのに、勇気が要った。

 朱里と最後に話したのは三、四年前。小学生だった陽輝は、どうやって会話していたろう。母との通話から漏れ聞こえた、華やいだ声に恐れをなした。


「あ、あの。ええと朱里ちゃん?」

「わあ、ハルくんだあ。久しぶりね、元気? あたし、分かる?」

「わわわ、分かるよ」


 間違えた。いや間違ってはいないが、幼いころのまま朱里ちゃんと呼んでしまった。向こうもすっかり受け入れて、昔と同じに呼ぶ。


 記憶とは、色々違う。こんなに弾むような、きらきらとした声だったか。話す言葉も母や伯母と同じ、バリバリの広島弁でなかったか。


「聞いたんだけど。受験勉強、うまくいかないの?」

「そんなことはないん――ですけど」

「えっ?」

「いやそんなことないんじゃけど、母さんが心配してくれて」

「そっかー。叔母さん、優しいよね」


 なぜか猛烈に顔が熱い。レースのカーテンは閉めていたはずだが、急に直射日光が入ったろうか。

 泳ぐ視線の端へ、母が映る。外を眺めていたようだが、気配に気付いてこちらを向いた。なぜか機嫌良さげに、にっこりと笑う。


「大学って言っても、あたしは短大でね。それほど自信を持って、任せてとは言えないの。でもハルくんのお手伝いになるなら、やらせてもらおうと思う」

「えっ。あの、ええと、いいん?」


 思わず、引き受けてくれるのかと念を押した。いつの間にか、陽輝も望んでいることになっていた。


「もちろんいいよ、頑張ろうね!」

「う、うん。よろしく」


 細かなことはともかく、どうやら朱里の指導を受けると決まった。母も頷き、話し終わったらまた代われと言って部屋を出て行く。


「ところで、受ける学校ってどこ?」

「えっ」


 決めていない。どころか、考えてもいない。そんなことで頼んだのかと呆れられるだろうか。

 ならば適当な名を出しておいて、あとで気が変わったと言えばいい。


 しかしそれにしても、どこの学校を言うか。全国的にも知られる大学付属では、ハードルが高すぎる。

 かと言って、あまりに風評の悪いようなところを言うわけにもいかない。


「私立だとお金もかかるし、公立がええかなと思って」

「ハルくん偉いねえ、凄いねえ」


 ちょっと反応を見るつもりで言ったが、大げさなくらいに褒められた。

 どうもこの路線だ。親に負担をかけない孝行息子が良いらしい。


「で、定期代もかかるし。いちばん近いところに行こうと思って」

「いちばん近いところ? どこだっけ」


 結局は校名を言わねばならない。ベッドから起き、「ええと」と思い出すそぶりをする。その間に机から、進学資料のプリントを探した。


「あっ、舟有高校ね。近いね、歩いて行けるじゃない」

「そうそう。舟有、舟有」


 朱里のほうが答えに近かった。田舎に住んでいても、スマホの威力はアナログと比較にならない。ただしそれは、朱里を絶句させるにまで及ぶ。


「え……あたしで大丈夫かな」

「なにが?」

「だってハルくん、こんなとこ受けるの?」

「こんなとこって、なんかおかしかった?」

「おかしくないよ。舟有の偏差値、六十五もあるから。あたしの高校、五十五とかだったよ」


 間に合わなかったプリントを見ると、たしかに六十五と書いてある。偏差値がどんな食べ物か知らないが、通う生徒の学力を示すものとは想像がついた。

 一覧にある他の高校と比較しても、大学付属と同等。舟有よりも高いのは、ほんの数校しかない。


「ああっと、うん。まあまだ決定じゃないし」

「そ、そうだね。でも行けたら凄いよ、あたし頑張るね!」


 また褒められた。クラリネットを鳴らしたような、心地のいい声で。

 クラスに居る女子とは違う。燈子が憎まれ口を言うときの、寝ぼけた声とも違う。あれは言うなれば、太鼓の皮をバチで引き摺っている。


 それからなにを話したか、あとで思い返してもぼんやりとしか覚えていなかった。田舎の川で泳いだり、餅に巻く葉っぱを採りに山へ入ったり。そういう想い出の話だったと思う。

 はっと我に返ると、スマホは既に母の手にあった。


「じゃあ夏休みの間、よろしくね」


 もう一度、声を聞きたかった。しかし電話は切られてしまう。恨めしく母を睨みつつ、なにやら吉報らしき言葉について問う。


「夏休みの間?」

「そうよ。みっちり教えてもらいんさい」


 言って母は、スマホを操作しながら去る。きっと経緯を父に報告しているのだ。

 だがそんなことはどうでも良かった。朱里がこの家にやってきて、しかも何日も泊まるらしい。

 胸の鼓動が速くなり、ふがふがと自分の鼻息がやかましく感じる。


 じっとしていられず、床へ放っていた雑誌を棚に戻す。が、気に入らなくて捨てることにした。ひとつやり始めると、あれもこれも。掃除機も雑巾がけも行って、部屋じゅうを整えた。

 それでもまだ、やり残したことのある気がする。考えても思いつかず、別のことをキッチンの母へ尋ねに向かう。


「母さん、朱里ちゃんと撮った写真ってあったっけ?」

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