恋をするなら八月に限る

須能 雪羽

第一章:初恋の相手

第1話:初恋の相手

 黄ばみを通り越して茶ばんだエアコンが、ときに咳払いを織り交ぜ、冷気を吐き出す。

 八月の昼下がり。中学三年生の男子に与えられた洋室。

 向かい合う関朱里せきあかりとの六十センチを、どうにかむさ苦しくない温度に整え続けてくれている。


「これは? 今の問題と似とるけど、たぶん解き方が違うよね」

「うん、そう。よくパッと見て分かるね、ハルくんて凄いなあ」


 陽輝はるきが普段使っている勉強机でなく、折り畳みの低いテーブルには数学の問題集とノート。百均のペンケース。飲み物の入ったグラスが二つ。それだけで、天板のほとんどが見えない。

 いや今は、袖のないブラウスから伸びた腕も視界にあった。質問した問題の図形を、細い指がなぞる。


 遠い布地の奥へ覗く肌に、視線が吸い付けられた。健康的に薄く焼けた部分と、白い部分がくっきり分かれる。

 しかしすぐに、今はそれどころでないと、自身へ喝を入れる。瞼を閉じ、ごまかすためにグラスのコーラを飲み干した。


「うーん、これはどうするんだっけ。ちょっと待ってね」

「うん、大丈夫」


 従姉いとこの朱里は、たしか陽輝の七つ上だ。すると今年、二十一歳。

 高校入試に向けた家庭教師を引き受けてくれたものの、当人の触れ込み通りにあまり要領は良くない。


 目を開けると、小さなマスコットの付いたペンの尻で頭を掻いている。

 肩に届くかどうか、ゆるくウェーブした髪は真っ黒だ。頬や唇にも、化粧けた感じはしない。

 けれどもどこから香るのやら。花の蜜とミルクを絶妙に混ぜたような匂いが、年上の女性を意識させる。


「あっ。もしかしてさっきの? ええと、このページじゃなくて、ここ。これと同じ?」


 問題と関係のないことに意識を割いて、気分転換になったとでも言うのか、はっと閃いた。三十分ほど前に教わった解法と、考え方は同じだった。


「うーん。あ、そうだね! そうよ、さっきやったばかりじゃないねえ」


 補助線が最初から余計に引いてあって、いかにも意味ありげで不要な数値に惑わされた。

 などと朱里は、年下の従弟に言いわけを並べ立てる。「もう」と拗ねた声で、陽輝の答えに赤丸を付けもする。ぐるぐるとしつこく重ねたので、終いに花丸になったが。


「ごめんね、頼りない先生で」

「そんなことないって。さっき教えてもらってなかったら、これも分からんかったし」

「ほんと? かえってハルくんの迷惑になってたらね、どうしようって。役に立たないなら正直に言ってね」


 合わせた両手が額にくっつき、そのまま頭を下げる。ふざけてはいない、これが朱里にとって最大限の謝罪を示すポーズだ。

 もちろん見ず知らずの相手にはしまいが、仲のいい従姉弟の間では十分過ぎた。ただし今は謝られる理由がない。


「ほんとほんと。ゆうべ教科書見ても、全然分からんかったもん」

「それならいいんだけど」

「クラスの頭のいい奴とか先生なんかに聞いたら『なにが分からんのか説明してみい』みたいなこと言うし。それが出来たら質問せんって」

「そうだねえ」


 クスッと、笑みがこぼれる。笑わすつもりもなかったのに、思わぬ幸運とはあるものだ。

 たったそれだけで、陽輝の頬はだらしなく緩む。すぐに察し、頬杖でごまかした。


「疲れちゃった? 休憩しよっか」


 時計を仰ぎ見て、視線を戻すなり小首を傾げる。朱里の動作のいちいちが、致死量の毒と言えた。

 悶え殺す気? と問うたところで、彼女には理解されまい。陽輝はオムツを替えてもらったことがあるはずだし、一緒に風呂へも入った仲だ。


「あっ、さっきのって。あたしが同レベルで悩むから、ちょうどいいってこと?」

「そんなん言ってないじゃろ」

「もう。やっぱり先生になれてないんじゃない」

「助かっとるってば」


 頬を膨らませ、朱里はベランダに面した窓へ向かった。射し込む日光に、彼女の白く長いスカートが透ける。すらとした脚が小刻みに前進するのが可愛らしい。


 そもそもの布地からして、完全に透けている。レースでなく、なんと言ったろう。聞いたのに思い出せないのが、なんだか申しわけない。

 と殊勝に感じながらも頭のどこかで思春期が暗躍し、心臓を高鳴らせる。下に履いたショートパンツの形が露わで、座ったまま動けなかった。


「ねえねえハルくん」

「な、なに?」


 くるっと。朱里は勢いよく振り返る。邪な視線に気付かれた気がして、声がひっくり返った。


「ハルくんの初恋っていつ?」

「どうしたん、急に」

「急かな。急だねえ。でも思い付いちゃったんだもん」


 意趣返しのつもりだろう。わざとらしく口角の上がった、朱里の悪戯めいた笑みも陽輝には馴染みだ。

 今あたしは冗談を言っていますよ、と彼女はわざわざ知らせてくれる。おそらく無意識で。


「当ててみようか」

「朱里ちゃんに分かるわけないじゃん」

「分かるよー。あたし実は、超能力者なの」


 朱里が住むのは、陽輝の母の郷里だ。車で一、二時間の距離だが、情報交換の機会は年に二度だけ。

 それがこの家庭教師の期間。この日まで十日間を泊まり込んだくらいで、極めてプライベートな情報を奪われたはずはなかった。

 なにしろ誰にも打ち明けたことがないのだから。


「その人は、すごく近くに居るでしょ」

「居ない居ない」

「今の時点で、ハルくんとすごく親しい」

「だから居ないってば」

「お互いのこと、すごくよく知ってる」

「すごく、が多くない?」


 怪しげな動きで腕を差し伸べる朱里は、きっと勘違いしている。ちらちらと何もない壁のほうへ視線の向くのが、その証拠だ。

 陽輝が産まれ、産婦人科から戻ったのがこの古いアパート。壁の向こうには、同じころに生まれた幼馴染の部屋がある。


「どうしてそんなに隠すの」

「隠すんじゃなくて、居らんって言うとるでしょ。朱里ちゃんこそ、なんでそんなに聞くん」


 どうしてと言われても、陽輝にも都合がある。初恋の相手に協力してもらい、志望校に合格するという栄誉を得て、晴れて告白するという目標が。


「だって、初恋は叶わないってよく言うでしょ。本当にそうなのかな」

「……朱里ちゃんも、初恋とかあったん」

「また馬鹿にして、そのくらいあります。でもあたしのは叶わなかったから、ハルくんは叶うといいなって」


 だから初恋は、朱里ちゃんなんよ。と吐露したいのを、すんでに堪えた。

 こんなどさくさ紛れに恋が実ったところで。いやそれは嬉しいが、実らない可能性が高すぎる。促成栽培めいた想いでも、大切にしたかった。

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