恋をするなら八月に限る
須能 雪羽
第一章:初恋の相手
第1話:初恋の相手
黄ばみを通り越して茶ばんだエアコンが、ときに咳払いを織り交ぜ、冷気を吐き出す。
八月の昼下がり。中学三年生の男子に与えられた洋室。
向かい合う
「これは? 今の問題と似とるけど、たぶん解き方が違うよね」
「うん、そう。よくパッと見て分かるね、ハルくんて凄いなあ」
いや今は、袖のないブラウスから伸びた腕も視界にあった。質問した問題の図形を、細い指がなぞる。
遠い布地の奥へ覗く肌に、視線が吸い付けられた。健康的に薄く焼けた部分と、白い部分がくっきり分かれる。
しかしすぐに、今はそれどころでないと、自身へ喝を入れる。瞼を閉じ、ごまかすためにグラスのコーラを飲み干した。
「うーん、これはどうするんだっけ。ちょっと待ってね」
「うん、大丈夫」
高校入試に向けた家庭教師を引き受けてくれたものの、当人の触れ込み通りにあまり要領は良くない。
目を開けると、小さなマスコットの付いたペンの尻で頭を掻いている。
肩に届くかどうか、ゆるくウェーブした髪は真っ黒だ。頬や唇にも、化粧けた感じはしない。
けれどもどこから香るのやら。花の蜜とミルクを絶妙に混ぜたような匂いが、年上の女性を意識させる。
「あっ。もしかしてさっきの? ええと、このページじゃなくて、ここ。これと同じ?」
問題と関係のないことに意識を割いて、気分転換になったとでも言うのか、はっと閃いた。三十分ほど前に教わった解法と、考え方は同じだった。
「うーん。あ、そうだね! そうよ、さっきやったばかりじゃないねえ」
補助線が最初から余計に引いてあって、いかにも意味ありげで不要な数値に惑わされた。
などと朱里は、年下の従弟に言いわけを並べ立てる。「もう」と拗ねた声で、陽輝の答えに赤丸を付けもする。ぐるぐるとしつこく重ねたので、終いに花丸になったが。
「ごめんね、頼りない先生で」
「そんなことないって。さっき教えてもらってなかったら、これも分からんかったし」
「ほんと? かえってハルくんの迷惑になってたらね、どうしようって。役に立たないなら正直に言ってね」
合わせた両手が額にくっつき、そのまま頭を下げる。ふざけてはいない、これが朱里にとって最大限の謝罪を示すポーズだ。
もちろん見ず知らずの相手にはしまいが、仲のいい従姉弟の間では十分過ぎた。ただし今は謝られる理由がない。
「ほんとほんと。ゆうべ教科書見ても、全然分からんかったもん」
「それならいいんだけど」
「クラスの頭のいい奴とか先生なんかに聞いたら『なにが分からんのか説明してみい』みたいなこと言うし。それが出来たら質問せんって」
「そうだねえ」
クスッと、笑みがこぼれる。笑わすつもりもなかったのに、思わぬ幸運とはあるものだ。
たったそれだけで、陽輝の頬はだらしなく緩む。すぐに察し、頬杖でごまかした。
「疲れちゃった? 休憩しよっか」
時計を仰ぎ見て、視線を戻すなり小首を傾げる。朱里の動作のいちいちが、致死量の毒と言えた。
悶え殺す気? と問うたところで、彼女には理解されまい。陽輝はオムツを替えてもらったことがあるはずだし、一緒に風呂へも入った仲だ。
「あっ、さっきのって。あたしが同レベルで悩むから、ちょうどいいってこと?」
「そんなん言ってないじゃろ」
「もう。やっぱり先生になれてないんじゃない」
「助かっとるってば」
頬を膨らませ、朱里はベランダに面した窓へ向かった。射し込む日光に、彼女の白く長いスカートが透ける。すらとした脚が小刻みに前進するのが可愛らしい。
そもそもの布地からして、完全に透けている。レースでなく、なんと言ったろう。聞いたのに思い出せないのが、なんだか申しわけない。
と殊勝に感じながらも頭のどこかで思春期が暗躍し、心臓を高鳴らせる。下に履いたショートパンツの形が露わで、座ったまま動けなかった。
「ねえねえハルくん」
「な、なに?」
くるっと。朱里は勢いよく振り返る。邪な視線に気付かれた気がして、声がひっくり返った。
「ハルくんの初恋っていつ?」
「どうしたん、急に」
「急かな。急だねえ。でも思い付いちゃったんだもん」
意趣返しのつもりだろう。わざとらしく口角の上がった、朱里の悪戯めいた笑みも陽輝には馴染みだ。
今あたしは冗談を言っていますよ、と彼女はわざわざ知らせてくれる。おそらく無意識で。
「当ててみようか」
「朱里ちゃんに分かるわけないじゃん」
「分かるよー。あたし実は、超能力者なの」
朱里が住むのは、陽輝の母の郷里だ。車で一、二時間の距離だが、情報交換の機会は年に二度だけ。
それがこの家庭教師の期間。この日まで十日間を泊まり込んだくらいで、極めてプライベートな情報を奪われたはずはなかった。
なにしろ誰にも打ち明けたことがないのだから。
「その人は、すごく近くに居るでしょ」
「居ない居ない」
「今の時点で、ハルくんとすごく親しい」
「だから居ないってば」
「お互いのこと、すごくよく知ってる」
「すごく、が多くない?」
怪しげな動きで腕を差し伸べる朱里は、きっと勘違いしている。ちらちらと何もない壁のほうへ視線の向くのが、その証拠だ。
陽輝が産まれ、産婦人科から戻ったのがこの古いアパート。壁の向こうには、同じころに生まれた幼馴染の部屋がある。
「どうしてそんなに隠すの」
「隠すんじゃなくて、居らんって言うとるでしょ。朱里ちゃんこそ、なんでそんなに聞くん」
どうしてと言われても、陽輝にも都合がある。初恋の相手に協力してもらい、志望校に合格するという栄誉を得て、晴れて告白するという目標が。
「だって、初恋は叶わないってよく言うでしょ。本当にそうなのかな」
「……朱里ちゃんも、初恋とかあったん」
「また馬鹿にして、そのくらいあります。でもあたしのは叶わなかったから、ハルくんは叶うといいなって」
だから初恋は、朱里ちゃんなんよ。と吐露したいのを、すんでに堪えた。
こんなどさくさ紛れに恋が実ったところで。いやそれは嬉しいが、実らない可能性が高すぎる。促成栽培めいた想いでも、大切にしたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます