飛将の軍師

奈良大学 文芸部

第1話 奸雄との出会い

 西暦二五年に光武帝が漢を再興した後漢は約一六〇年後、第一二代皇帝・霊帝の時代に、危機に陥った。

 政治が乱れ、貧窮した民の不満は各地で溢れた。そして、一八四年には、太平道の教祖・張角による大規模な民衆蜂起が発生する。いわゆる黄布の乱である。一説には一〇〇万の民が参加したとも言われるこの反乱は、張角の死や後に名を馳せる武将たちの活躍もあり一年も経ずして鎮圧されたものの、根本的な原因である政治腐敗は解決せず、国はさらに乱れ、武力を有する者たちが台頭していくこととなる。

 そして一八九年に霊帝が没すると、洛陽の都では政治的対立の末に大将軍何進が暗殺される。その混乱につけこみ、都で政治の実権を握ったのは西涼の董卓だった。董卓は一三代皇帝・少帝弁を廃するや、まだ幼い劉協を14代皇帝・献帝を傀儡皇帝として擁立した。そうして相国の座についた董卓が権力を振りかざすと、民は怒り深い憤りが国に渦巻いた。しかし、朝廷の臣たちは憂い泣くばかりで力はなく、董卓の暴政に任せるままであった。

 一九〇年、後漢の都洛陽に衝撃が走った。董卓暗殺未遂が発生したのである。それだけであれば「なんだまたか。で、今度の犯人は誰でどんな風に董相国に処刑されたんだ?」という風に人々の噂話の種になるだけだっだろう。事実、それまでの暗殺はすべて失敗に終わり、犯人は捕らえられて殺されていた。しかし、今回は様子が違った。暗殺自体は失敗に終わったものの、犯人は逃亡に成功したのだという。


 そんな混乱の時代が始まろうとする後漢のとある場所で、一人の男が馬を駆っている。男はひどく焦っているようで、道行く人々には目もくれず一心不乱に鞭を振るう。途中何人も道行く人々に当たりそうになり罵声を飛ばされても、見向きもせずに駆けて行く。しかし——

「待て貴様」

「すぐに馬からおりるんだ」

 男は、関所にかかったところで守備兵に呼び止められ、たちまち馬から引きずりおろされてしまった。

「先日中央から、曹操という男を見かけ次第捕らえよと命があった。その男はあろうことか董相国を暗殺しようとした大罪人であるそうだ。お前、その顔を隠している頭巾をとれ」

 男は病だのなんだのと言い逃れをしようとしたが、兵たちは耳を貸さず頭巾を剥ぎとった。あらわになった男の素顔と人相書きを見比べていた兵たちはにわかに殺気立った。

「ふむ、なんとも人相描きと似た面ではないか。取り調べをいたすゆえ大人しくいたせ」

「ま、待ってください。人違いです。わ、私は——

「問答無用! 話はあとでゆっくり聞いてやる。役所へ連れていけ!」

 兵たちはあっという間に男を取り囲むと、抵抗する間も与えず役所へ連行していった。

 

「申し上げます」

 役所でなにやら書き物をしていた役人は、部下の声で顔を上げた。

「どうした」

「関所の兵が怪しげな男を捕らえました。しかもその男、お尋ね者の曹操によく似ておるとのこと。おい、連れてこい」

 部下が命じると、兵たちが縛り上げられた男を連れてきた。男は手酷くやられたようで、体のあちこちに痣や出血が見てとれた。

「乱暴はやめてください。逃げ出したりはしませんから。お願いですから乱暴はやめてください」

「ふん、そう言って逃げる機を窺っているのだろう。そうはいかんぞ。さあ、ここにひざまずけ」

 役人は自分を見上げる男の顔をじっくりと眺めた。

「私はこの中牟県の県令だ。名を名乗れ」

「私は沛国の商人で、姓は王、名は進です。人違いで連れて来られました。よくお調べの上で解放してください」

 役人はそれを聞くと笑いだした。

「なにがおかしいのです」 

「これが笑わずにいられるか? 人相描きと比べるまでもない。貴様は曹操だ」

 男はなおも弁明しようとするが、役人はそれを制した。

「曹操、貴様この私の顔に見覚えがないか? 私はお前の顔によく見覚えがあるぞ。なにしろ、私はほんの一年前まで都で働いていたのだからな」

 男、いや曹操はすっかり観念してうつむいてしまった。よくよく記憶を探ると、たしかに役人の顔に見覚えがあったのだ。名前は失念していたが。

「お前の首には千金の賞金と万戸候の爵位がかけられている。私が一生かかっても使いきれぬ額だな。その上万戸候ともなれば、この私と家族は一生安泰というわけだ。私のところに来てくれて感謝するぞ曹操」

 曹操はキッと役人を睨み付けた。

「無駄話はそれで終わりか県令殿。ならばさっさと私の首をはねよ」

「まあ待て曹操。たしかにお前は罪人だが、今日のところは私のところへ来た客人だ。賞金と昇進の礼として、明日の朝までの時間をくれてやろう。家族に手紙でも遺すことだな」

 そう言うと役人は部下に命じて曹操を牢獄に放り込み、前祝いと称して宴会の準備を始めさせた。


 日も沈み宴会ドンチャン騒ぎで疲れ果てた人々の多くが寝静まった頃、檻に捕らえられている曹操に、一人の男が近づいた。

「おい、曹操。曹孟徳よ」

 檻の中の曹操はまだ起きていたようで、声をかけた男をジロリと睨んだ。

「なんだ、県令殿ではないか。てっきり酔い潰れて寝ていると思ったが。こんな夜更けに何のようだ」

 役人は檻の鍵を開けると中に入り、曹操の前に立った。

「お主は都にあって董相国に重用されていたと聞く。それが何故、相国を裏切り暗殺せんとしたのだ。首をはねる前にそれを知りたかった」

「ふん、貴様ごときが何故そんなことを知りたがる。もはや全て終わったこと、貴様はすでに俺を捕らえたのだぞ。何を気にすることもなく首をはね、それを都へ持っていき恩賞にあずかればいいではないか」

 曹操はそれだけ言うと黙って寝転がったが、役人が笑いだしたので顔を上げた。

「いやはや、都で名を上げ黄布の乱で英雄の一人に数えられたお主も、人を見る目はないようだな。まったく惜しいことだ」

「なんだと」

「まあそう怒るな。お主が私のことを欲に溺れた木っ端役人かのように評したから一言酬いたまでのこと。私とてお主と同じようにこの国を憂いているが、志を同じくする者もなく、いたずらに時を過ごしている。そこへお主が来たので声をかけたのだ」

 その意味ありげな言葉に、曹操は態度を改めて役人の方を向き口を開いた。 

「教えよう。たしかに董卓はこの曹操を重く用いてくれた。しかし、俺は、曹家は四百年来漢室の禄をいただき生きてきたのだ。それが何故成り上がりの暴虐董卓ごときの配下でいられようか」

 曹操の言葉はどんどんと熱を帯びていく。

「皇帝を廃し政治を己のものとするような賊であるぞ董卓は。なればこそ俺は国のため賊を刺し殺さんとした。そのために奴に媚びへつらい近づいた。しかし天は我に味方せず、こうして囚われの身だ。だが、やったことに後悔はない。俺の死は天下にあって董卓を恨んでいる者たちに勇気を与える。曹操に代わって俺がやるという者が現れる。そう思えば死などなにほどのことがあろうか。ここで死ぬのが俺の運命だったというだけのことだ」

 語り終える頃には曹操から熱は引いていた。黙って聞いていた役人は、周りを見回した後懐から鍵と短剣を取り出すと、曹操の下半身を縛っていた鎖を解き縄を切った。

「さ、お立ちください」

「な、何を」 

「曹操、いや孟徳殿、貴方はどこへ行こうとしてここへ来られたのですか」

「……故郷へ。故郷へ帰って兵を集め。諸国の雄へ檄を飛ばし、軍勢を率いて再び都へ向かい董卓を討とうと思っていた」

「そうでしたか」

 そう言うと役人は再び懐に手を入れ、水と食べ物を孟徳に手渡し、ひざまずいて深々と頭を下げた。

「貴方は私の見立てどうりの人物だ。貴方こそ私が求めていた忠義の士」

曹操はあまりのことに言葉も出ないようで、手渡された物に口をつけようともせず役人を見下ろしている

「驚くのも無理のないこと。実は、先程は周りの目もありああいう態度をとらざるを得なかったのです。私も董卓を憎んでいます。機会さえあれば刺し殺してやろうとさえ考えていました。それを貴方が私の代わりにやってくれようとしたのです」

「顔を上げてくだされ。県令殿は董卓に何か恨みがおありか」

 曹操は役人を抱き起しながらそう問うた。

「恨みはあります。しかしそれは私怨の類いではありません。民の苦しみや国家の疲弊を憂う怒りから奴を憎んでいます。孟徳殿、私は今限りで官を捨てて貴方とともに行きます。共に力を合わせて賊を討とうではありませんか」

 立ち上がった役人は拱手の礼をしてそう言った。

「そ、それは本当に」

「嘘ならわざわざ貴方を檻から出したりはしません」

 それを聞いた曹操は満面の笑みを浮かべ、何度も何度も役人の肩を叩き喜んだ。

「今日はなんという素晴らしい日だ。そうだ県令殿、名はなんともうされる」

「おお、そういえば名乗っておりませんでしたな。姓は陳、名は宮、字は公台です」

「そうか、公台殿か。では公台殿に一つ、聞きたいことがある」

「なんでもお聞きください」

「この曹操は都から逃げ出し今や身一つだ。そなたは、家族などは」

 陳宮は僅かに顔をゆがませた。年老いた両親、最愛の妻、幼い子供たちが彼にはいた。しかし、数秒の後に決心をした。

「私は、もう多くをかまってはいられません。幸い、この町には信頼できる人物が一人います。家族は彼に託します。漢帝国を救うためとあらば、皆もわかってくれるでしょう」

 曹操はそれを聞くと陳宮の手を取った。

「公台殿、そなたの心意気に感服した」

「孟徳殿には及びません。この陳宮、孟徳殿に一生ついていきます」

「感謝するぞ公台殿」

 二人は顔を見合わせ、互いに拱手の礼をすると夜陰にまぎれて役所を抜け出し馬を駆った。そうしてまずは陳宮の友人の家に向かい家族のことを頼むと、友人は夜だというのに嫌な顔一つせず二人を迎え入れた。それどころか話を聞くや激励し、旅費に食糧、衣服を渡し、頼みを快諾しすぐに陳宮の家に向かって行った。

——お前たちよ、私を許してくれ。孟徳殿と董賊討伐に立ち上がり、私は大業を成し遂げる。勝手をしてすまない。

 陳宮は家のある方角に頭を下げると、曹操と共に夜の闇の中に消えていった。


 それから三日の後、二人の姿は中牟県から遠く離れた丘の上にあった。

「孟徳殿、そろそろ休みましょう。今日はもう半日以上ずっと駆け通しで私も馬もへとへとです」

「そうだな、ではあそこに見える木の下でしばし休もう」

 馬を繋ぐと、ようやく一息ついた。

「孟徳殿、あなたの故郷まではまだ遠い。貰った路銀もそう多くはありませんが、この先どのように行かれるつもりですか」

「うむ、それについては考えがある。この先に成皐という小さな県があるのは知っているか」

「存じています」

「その成皐県の外れに呂伯奢という人物がいる。彼は父の義兄弟で、いうなれば私の伯父だ。彼を頼ろうと思う」

 陳宮はしばし考え込んだ後に口を開いた。

「孟徳殿、この中原の民は干ばつで飢えています。故に高額の恩賞とあらば飛び付くでしょう。今や目先の生活のために家族や友人を売る者がでる始末。その呂伯奢殿は信頼できますか」

「公台殿も中牟県を去る際に信頼できる友人に家族を託した。そなたにとっての彼が私にとっての呂伯奢だ。それに、私は自分を信じることはできないが、呂伯奢は信頼できる」

「孟徳殿がそこまで言うのなら」

 それから二人は食事を終えると馬にまたがり。再び駆け出した。そして夕方になる前に呂伯奢の家にたどり着いた。

「ここがそうですか」

「ああ、ここが呂伯奢の家だ」

 そういうと曹操は家の門を叩いた。

「どちら様ですか」

 門の内から使用人らしき男の声がした。

「すまんが呂伯奢殿に取り次いでもらえないかね。曹嵩の子曹阿瞞が来たと伝えてくれ」

「かしこまりました」

 それからしばらくして、にわかに家の中が騒がしくなり。門が開くと、中からたっぷりと白髪髭をたくわえた小柄な老人が飛び出してきた。

「ご子息! ああ、ご無事で良かった」

「伯父上!」

 二人は抱き合った。

「間違いないか」

「そうです。私は阿瞞です」

「朝廷からお前の人相描きが回ってきてな。しかも董卓を殺そうとしたというじゃないか。私はてっきりもう捕まって処刑されてしまったかと」

「こうして五体満足でここにおります」

 呂伯奢はその答えに満足したのか曹操を離すと、ようやく隣にいる陳宮に気がついたようである。

「このお連れの方は」

「おお、紹介がまだでしたな。こちらは中牟県の県令陳宮殿。この者がいなければ私は今頃首と胴とが離れて都に送られておりました」

 呂伯奢はひざまずき頭を下げた。

「そうでしたか。貴方は阿瞞の命の恩人。感謝いたします」

 陳宮は慌てて呂伯奢の手取り起こした。

「頭をお上げください呂伯奢殿。私は孟徳殿が救国の英雄だと思ったからこそお助けしたのです。英雄を助けるのは当然のことではありませんか」

 それは聞いた呂伯奢は「貴方は真の義人だ。阿瞞は素晴らしい友を得られた」と言いながら立ち上がり、二人を家に招き入れた。

「ささ、入ってくだされ。長旅でお疲れのことでしょう。おい、宴の用意だ。旨いものをたくさん持ってこい」

 呂伯奢はすぐに使用人たちに指示を飛ばし、宴会の準備を始めさせた。

「ありがとうございます叔父上」

「なにを言うんだ。ここはそなたの家も同じではないか。ゆっくり休んでいかれよ」

「呂伯奢様ちょっと来てください」

「ん、すまんが行ってくる。おい、二人を部屋に」

「かしこまりました」

 呂伯奢に命じられた使用人に連れられて二人は部屋に入った。陳宮は中牟県を出て三日ぶりに。曹操は董卓暗殺未遂から初めて安息の地を得たのであった。 

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