夢の渡殿 下

「わしは厳罰よりも、済子たちを守りたいのだ。わかるね、ひき丸」

「……存じ上げております」

「ひき丸に、わらび。そなたたちの憤りを、とても嬉しく思う。石投げなど、たいした実害はなかったわけだから多少は水に流そうではないか」


 額に傷を負った橘宮が言ったのだから、ひき丸も黙り込むしかない。主人の意向が一番尊重されるべきなのは本人もわかっているのだ。

 ふと橘宮が何かを思い出して、今までと色の違うため息をつく。


「今はたづ彦の方が大事おおごとだ。あの子は……」


 両腕を組む橘宮。ひき丸が神妙な面持ちで言う。


「よろしければお探ししましょう。まだ昨日のことです。遠くには行っていないはずです」

「……え?」


 わらびはきょとんとした。ついさっき橘宮の邸に辿り着いたばかりである。昨日のことなど知るよしもない。

 ひき丸が説明した。


「昨日、たづ彦は邸を飛び出して行方知れずになったんだ。……ちょっとだけ、俺のせいでもあると思う」


 そう言ったひき丸の頬は腫れているし、ちょっとした身じろぎも億劫そうにしているのだ。聞いてもはっきりした返事をくれなかったし、明らかにたづ彦の件と関わりがありそうではないか。

 わらびは言った。


「――聞かせて」



 


「ひき丸。あの箱を持っておいで」


 近くの厨子ずしから漆塗りの小さな箱を持ってこさせた橘宮。おもむろに蓋を取る。

 とたん、ふわんと夢のような香りが漂ってきた。何に似ているわけでもないけれど、ずっと嗅いでいたい優雅な香りだ。


「いい匂い……」

「そうだろう。とてもよいものなのだ。《黄熟香おうじゅくこう》と言ってね、はるばる海を越えてやってきた香木だ。銘を《夢の渡殿》と言い、代々の帝が受け継ぐ宝物のひとつだ。削り取るには帝のお許しがいるが、実に貴重なものゆえ、滅多に許されるものではない」


 橘宮は箱に入っていた小さな包み紙をぱらりと開く。しかし、香木を削り取った欠片があると思われたそこには。


「なにもないね」


 匂いはあっという間に霧散してしまい、残念な気持ちになる。


「そう。何もないのだ」


 紙をふたたび折り畳み、箱の蓋を閉めてから橘宮は続けた。


「わしが石を投げられたのは、実はこの《黄熟香》を今上きんじょうからいただいた帰り道だ。ただこのことは内密にしていて、まだ知る者も少なかったのだが……。すぐになくなってしまったのだ」

「そのことがたづ彦と何の関係があるの」


 橘宮は長い睫毛を伏せ、言葉を選んでいるようだった。するとひき丸が端的に言った。


「《黄熟香》を盗んだ犯人がたづ彦じゃないかと疑ったんだ」


 俺が、と付け加えられる。


「ちょっと怪しいところがあったから問いただしたんだが、だんまりでさ。言い争ううち、たづ彦が俺の腹に二、三発入れてから邸を飛び出したんだよ」

「ふうん」


 わらびはすすすっとひき丸ににじりより、えい、と肩をつつく。いててて、と痛がるひき丸。


「……いっぱい、怪我してるよね?」


 ひき丸は気まずそうに視線を外した。橘宮がははは、と笑う。


「そなたらはあいかわらず仲がよいな。たづ彦にもよき友のひとりやふたりおればよかったのかもしれぬ。だれかに話して、気を紛らわすぐらいはできたであろう」

「あれはたづ彦にも非がございます」


 ひき丸がむすっとした顔のまま言う。


「見ていて腹が立ちますよ。庭の仕事をするにも不真面目だし、さぼるし、夜遊びするし、何を話したところで身の入った返事すらできないんです」


 それなのに、狂ったように怒り出す時がある。ひき丸が声を低くした。


「あいつは魂をどこかに落っことしたまま都に来たんでしょう。要は馬鹿なんですよ、馬鹿」

「馬鹿なの」

「馬鹿だろう。後先考えずに外に飛び出す阿呆でもあるのさ」


 ふん、とひき丸が鼻で笑うが。


「でも、そんなたづ彦を探すんでしょ。心配だから」

「宮様にこれ以上の心労をおかけしないためだ」

「それだけでも、ないんじゃない?」

「な、なんだよ……」

「ひき丸は面倒見がいいから、たづ彦も何とかしなくちゃと思ってる。そういうことならわらびも手伝えるよ」

「う……」


 わらびにじっと見られたひき丸は頬を染め、ますますそっぽを向いた。

 このふたりのやりとりにふう、と嘆息したのは橘宮だ。億劫そうに立ち上がると、わしも済子なりこに会いたくなってきたぞとぼやく。

 ひき丸は慌てた。


「宮様、これはそのう……とりあえず、違います!」

「よいよい。仲良きことは美しきかな。いまさら照れることでもなかろう。……わらびよ。失せ物探しとちと違うかもしれぬが、たづ彦の件、頼まれてくれるな」

「たづ彦を探せばいい?」


 そのとおり。橘宮は笑みを深める。


「さて。そなたたちに頼めたならもう安心だ。わしは済子に会いに行くこととしよう。松君まつぎみもようやく懐いてきたのでな、親子三人水入らずだ。しばらく人払いを頼むぞ」

「承知いたしました」


 ひき丸は平伏した。

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