夢の渡殿 下
「わしは厳罰よりも、済子たちを守りたいのだ。わかるね、ひき丸」
「……存じ上げております」
「ひき丸に、わらび。そなたたちの憤りを、とても嬉しく思う。石投げなど、たいした実害はなかったわけだから多少は水に流そうではないか」
額に傷を負った橘宮が言ったのだから、ひき丸も黙り込むしかない。主人の意向が一番尊重されるべきなのは本人もわかっているのだ。
ふと橘宮が何かを思い出して、今までと色の違うため息をつく。
「今はたづ彦の方が
両腕を組む橘宮。ひき丸が神妙な面持ちで言う。
「よろしければお探ししましょう。まだ昨日のことです。遠くには行っていないはずです」
「……え?」
わらびはきょとんとした。ついさっき橘宮の邸に辿り着いたばかりである。昨日のことなど知るよしもない。
ひき丸が説明した。
「昨日、たづ彦は邸を飛び出して行方知れずになったんだ。……ちょっとだけ、俺のせいでもあると思う」
そう言ったひき丸の頬は腫れているし、ちょっとした身じろぎも億劫そうにしているのだ。聞いてもはっきりした返事をくれなかったし、明らかにたづ彦の件と関わりがありそうではないか。
わらびは言った。
「――聞かせて」
「ひき丸。あの箱を持っておいで」
近くの
とたん、ふわんと夢のような香りが漂ってきた。何に似ているわけでもないけれど、ずっと嗅いでいたい優雅な香りだ。
「いい匂い……」
「そうだろう。とてもよいものなのだ。《
橘宮は箱に入っていた小さな包み紙をぱらりと開く。しかし、香木を削り取った欠片があると思われたそこには。
「なにもないね」
匂いはあっという間に霧散してしまい、残念な気持ちになる。
「そう。何もないのだ」
紙をふたたび折り畳み、箱の蓋を閉めてから橘宮は続けた。
「わしが石を投げられたのは、実はこの《黄熟香》を
「そのことがたづ彦と何の関係があるの」
橘宮は長い睫毛を伏せ、言葉を選んでいるようだった。するとひき丸が端的に言った。
「《黄熟香》を盗んだ犯人がたづ彦じゃないかと疑ったんだ」
俺が、と付け加えられる。
「ちょっと怪しいところがあったから問いただしたんだが、だんまりでさ。言い争ううち、たづ彦が俺の腹に二、三発入れてから邸を飛び出したんだよ」
「ふうん」
わらびはすすすっとひき丸ににじりより、えい、と肩をつつく。いててて、と痛がるひき丸。
「……いっぱい、怪我してるよね?」
ひき丸は気まずそうに視線を外した。橘宮がははは、と笑う。
「そなたらはあいかわらず仲がよいな。たづ彦にもよき友のひとりやふたりおればよかったのかもしれぬ。だれかに話して、気を紛らわすぐらいはできたであろう」
「あれはたづ彦にも非がございます」
ひき丸がむすっとした顔のまま言う。
「見ていて腹が立ちますよ。庭の仕事をするにも不真面目だし、さぼるし、夜遊びするし、何を話したところで身の入った返事すらできないんです」
それなのに、狂ったように怒り出す時がある。ひき丸が声を低くした。
「あいつは魂をどこかに落っことしたまま都に来たんでしょう。要は馬鹿なんですよ、馬鹿」
「馬鹿なの」
「馬鹿だろう。後先考えずに外に飛び出す阿呆でもあるのさ」
ふん、とひき丸が鼻で笑うが。
「でも、そんなたづ彦を探すんでしょ。心配だから」
「宮様にこれ以上の心労をおかけしないためだ」
「それだけでも、ないんじゃない?」
「な、なんだよ……」
「ひき丸は面倒見がいいから、たづ彦も何とかしなくちゃと思ってる。そういうことならわらびも手伝えるよ」
「う……」
わらびにじっと見られたひき丸は頬を染め、ますますそっぽを向いた。
このふたりのやりとりにふう、と嘆息したのは橘宮だ。億劫そうに立ち上がると、わしも
ひき丸は慌てた。
「宮様、これはそのう……とりあえず、違います!」
「よいよい。仲良きことは美しきかな。いまさら照れることでもなかろう。……わらびよ。失せ物探しとちと違うかもしれぬが、たづ彦の件、頼まれてくれるな」
「たづ彦を探せばいい?」
そのとおり。橘宮は笑みを深める。
「さて。そなたたちに頼めたならもう安心だ。わしは済子に会いに行くこととしよう。
「承知いたしました」
ひき丸は平伏した。
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